二次創作・キャプテン翼黄金世代列伝番外編「栄光の陰に生きた選手達」

キャプテン翼小説
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<ご注意>
この話は私が勝手に考えたキャプテン翼世界のオリジナルストーリーが元になっています。
実際のキャプテン翼にこのようなエピソードはありませんのでお間違えのないようお願いします。
面白いと思われた方は、過去に私が書いたオリジナルストーリーが当ブログ内の「キャプテン翼小説」カテゴリーにあるので読んでみてください。

「俺はあの大空翼に競り勝ったんだ」

そのことを一生の誇りとして、そっと心にしまっている人物がいる。

北海道で酪農を営むAさんだ。

Aさんは中学時代、地元富良野のふらの中学でサッカー部に所属。

後に『アジア最高のリベロ』と呼ばれる松山光と共にプレイし、全国大会ベスト4まで駒を進めたことがある。

Aさんが一生の誇りとしているのは、中学3年時の準決勝で、あの大空翼率いる南葛中と対戦したときの1プレイである。

試合途中、松山光と大空翼がこぼれダマを追った場面があった。

この試合、ふたりは中盤で互いを激しくマークしあい、しのぎを削っていた。

このときも互いが肩をぶつけながらボールを追っていたという。

瞬時の判断でAさんは松山に対し「キャプテン、ここは俺に任せて!」と叫んだという。

自分の位置からのほうがボールに近い・・・・・・そう確信したのだ。

大空翼のワンマンチームであった南葛に比べ、ふらのはチームワークの良さで知られたチームであった。

少人数で小学校からプレイしてきた彼らの結束は非常に堅く、信頼は非常に高かった。

試合を左右すると言ってもよい重大な局面であったが、松山光はAさんの判断を迷いもせず採用した。

結果、見事Aさんはあの大空翼を出し抜いて先にボールへ触れ、松山にパス。

ノーマークの松山は得意の地を這うロングシュートで見事得点をあげた。

大空翼は判断ミスを悔やんだという。

「大空翼はこの大会でケガをしていたから本調子ではなかった」

「松山は翼に競り勝てないと思ったからAさんに譲った」

「それ以前に彼らはさんざん翼に抜かれている。一度勝っただけでいかにも勝利したかのように考えるのはおかしい」

意地の悪い見方もできるが、考えるのは野暮だろう。
信頼が技術を上回ったのだ。

王者・南葛を苦しめたものの、結局、この試合は翼のドライブシュートにより逆転負けを喫した。

全国制覇を目指したAさんたちの夢はここで潰えた。

Aさんはその後、高校でもサッカーを続けるが、プロからスカウトが来るほどの結果は残せなかった。

今はひっそりと家業の酪農を継いでいるという。

そのため、メディアに名を出すことは望まないということであった。

しかしながら、あの瞬間のことは今でも思い出し、誇りに思っているとのことだ。

Aさんもまた黄金世代のひとりである。

中国は上海。

13億の人口を抱える国の最大都市でも、サッカーは人気のスポーツだ。

中国からは、まだまだ発展途上ながら、才能を秘めている選手たちが次々と欧州にも飛び出し始めている。

しかし、この上海のサッカーチームで正GKとして活躍したひとりの日本人については、あまり知られていない。

川上……中国語読みでチュワンションと呼ばれたそのGKは、かつて静岡県において「南葛(修哲)の若林、志水の川上」と並び評されたGKであった。

「小学生のとき、静岡県大会の決勝で俺は若林に卑怯なことをした。それで、ずっと心にわだかまりが残っていた」

川上はそう告白する。

「全国大会へ進出したいばかりに、ケガから復帰したばかりだった若林の脚を狙った。結果、若林は全国大会決勝まで出場することができなかった」

若林源三は予選大会中に脚を痛め、本調子ではなかった。

全国大会へ行きたいばかりに、その若林の脚を狙うようFWに指示したと川上は言うのである。

当事者が語ることなのでおそらく真実に間違いないだろう。

将来を期待された彼であるが、そのときのトラウマにより、中学、高校とサッカーへと真摯に打ち込むことができず、一時はアイスホッケーに転向することを試みたこともあるという。

しかし、彼もまたサッカーが大好きであり、忘れ去ることができなかった。

ワールドユース大会で奮闘する翼や若林を、テレビ観戦ながらも他の静岡を代表する選手たちと一緒に応援したとき、もう一度サッカーに対する情熱を思い出したという。

高校卒業後、彼は自分探しに世界を放浪した。

一時期上海に滞在し、たまたま草サッカーに飛び入り参加したという。

戯れ程度の気持ちであったというが徐々に体が熱くなるのを感じたという。

草チームから誘いを受け、何回も試合に参加していたところ、優れた技術と反射神経のよさがスカウトの目にとまり、プロチームから契約を打診された。

「運命なんて皮肉なものだ」

一時は迷った川上であるが、吹っ切れるきっかけになればと再びサッカーに打ち込むことを決心した。

結果、異国の地で正GKとして活躍、のちに中国へと帰化し、中国代表としてW杯アジア予選の場で日本代表と戦った。

川上のことを覚えていた一部の日本代表選手たちは驚いたというが(ちなみに大空翼は川上のことをまったく覚えていなかったという)、試合に関して日本代表は容赦なく、川上は再三好セーブを見せたものの、中国代表は0-3の完敗を喫した。

しかし、川上自身は満足していたという。

試合後、彼は思い切って若林に駆け寄り過去の過ちを詫び、自分を殴ってほしいとまで言ったという。

それに対して若林は「サッカーは格闘技だ。気にするな」と川上の肩を抱いてつぶやいたそうだ。

「憑き物が落ちたというのはああいうときのことを言うんだな」と悟ったかのような表情で川上は語る。

もし川上がわだかまりを拭い去って成長していたら、若林や若島津と日本代表正GKの座を争っていたのではないかとまで考えるのは想像がたくましすぎるだろうか。

彼もまた黄金世代のひとりである。

縦パスしか戦術のないチームが南葛を苦しめた。

大空翼は小学6年のとき、静岡県大会の準決勝で大苦戦をしている。

この試合、若林がケガで欠場し、森崎が代役を務めていたとはいえ、南葛は縦パスしか戦術のない島田小にカウンターから先制点を決められ浮き足立った。

試合内容は南葛が圧倒していた。

しかし、パスが簡単に通り、シュートチャンスも簡単に訪れるために、翼以外の選手が得点に色気を見せてしまい、島田小の術中にはまることになった。

前半は島田小のリードで折り返したほどである。

当時の南葛SC監督はハーフタイム中、選手を一喝したという。

結果、森崎がスーパーセーブを見せたために敗北こそ免れたものの、ノーマークからヘディングを放たれ、あわやというシーンもあったほどだ。

「全国大会で優勝した俺たちだけど、一番あせったのは島田小の試合だよ」と、当時の中心選手である井沢守の証言がある。

「日向の明和と戦ったときは、予選だったからまだ一回くらい負けてもいいやという気持ちがあったんだ。全国大会初戦だったから手探りでもあったしね。でも、島田小は違う。普通にやれば絶対に勝てる相手だし、あのとき監督もすごく怒っていたからみんなビクビクして固くなっていた。あのときケロッとしていたのは、翼とヤケクソになっていた森崎くらいのものさ。正直、あのとき森崎がシュートを防ぐとは思えなかった。奴のサッカー人生で、一番のスーパーセーブじゃないか」とも語っている。

このとき島田小の中心選手で、あわやというヘディングを放った上杉さんは、現在、母校島田小の教員となり、サッカー部の顧問を務めている。

「チームワークだけなら、ふらのにも負けなかったという自信があるね」

上杉さんは誇らしげにそう語る。

「当時はいい監督がいてね。監督といっても南葛みたいな強豪と違って普通の学校の先生なんだけど、自宅にやんちゃざかりのメンバーを全員寝泊りさせてまで、サッカーを教えてくれたんだ。俺たちがヘタクソだったからひとりもプロにはなれなかったけれど、教師になった人間が5人はいるよ。夢は次世代に受け継ぎたいね」

にこやかな笑顔で上杉さんはそう語った。

「そりゃ、あのときのシュートが決まっていたらと思ったことは何度もあるよ。大空翼が全国大会に出られなかったら、歴史は変わっていたかもしれないわけだからね。でも、決まらなかった。サッカーの神はやっぱり翼が大好きなのさ」

彼はこうとも言った。

「俺は今人生が幸せだし、毎日が充実しているよ。でも、大空翼は数多くの栄光を手に入れてサッカーの歴史に名を残したけれど、一個人としては幸せだったのかな?」

上杉さんもまた黄金世代のひとりである。

輝かしい業績ばかりが伝えられる黄金世代であるが、その片隅で敗北し去っていった多くの選手たちのことも忘れてはならない。

あるいは、彼らは黄金世代と同じ世代に生まれていなければ、のちに世界的な選手になっていたかもしれない。

しかし、黄金世代とともに生き、一瞬とはいえ輝いた彼らは幸せだったのではないか。

私はそう思いたい。

文責:片桐宗政(元Jリーグチェアマン)

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