二次創作・キャプテン翼黄金世代列伝「フィールドのアーティスト岬太郎」その3

キャプテン翼小説

残念ながら、その後のマドリッドオリンピックでは、大空翼という強烈な個性に再び取り込まれて目立たなかったが、優勝へ貢献したことはまちがいない。
後に岬は「翼くんといるとプレッシャーから解放された」と語っているが、偽りのない本音だろう。
真面目な彼にとって、チームの中心という役割は重荷であったはずだ。
ある意味、大空翼はストレスと無縁の人間であったから、キャプテンに適していたとも言える。
人格だけ見れば、松山光や三杉淳、岬太郎の方がよほど適していただろう。
黄金世代の所属したチームでは、実力ナンバー1の選手がキャプテンに選ばれることが多かったようではあるが。

オリンピックでの活躍を認められ、パリSGからオファーが来たことにより、翼と同じように彼もまた改めて世界へと羽ばたいて行った。
卓越したテクニックは目の肥えたフランス人をも魅了し、その誠実な人柄は個人主義の国フランスでも認められた。
特にボルドーに所属した「将軍」エル=シド=ピエールとの対決は名勝負といわれ、二人が対決する試合は常に満員であったという。
一時期のフランスリーグはパリSGかモナコが交互に優勝することが続いた。
残念ながら、パリSG所属時には、バルセロナに所属する大空翼との対決は実現していない。
一度、欧州チャンピオンリーグ準決勝にて両チームの対決機会があったが、翼のケガにより、対決は実現しなかった。
岬は翼抜きのバルセロナを破り、決勝戦においては三杉淳が所属したB・ミュンヘンと対決した。
当時、B・ミュンヘンには若き日のシュナイダー、若林、レヴィン(元スウェーデン代表)らも所属し、世界最強を誇っていた。
さすがに岬も敗れてしまうが、オチャドと繰り出すパリ黄金コンビは大いにB・ミュンヘンを苦しめた。
この試合もまた名勝負として歴史に刻まれている。

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その後、ワールドカップにて、再び日本の黄金コンビは爆発。
変幻自在のプレイで日本に初めてのワールドカップ優勝をもたらした。
岬は翼と共に優秀選手に選ばれ、世界中のサッカーファンが岬太郎の名を心に刻み込んだ。
しかし、この頃、熱狂する国民の期待をよそに、岬自身は脚の爆弾がいつ破裂するかというギリギリの状況でプレイしていたという。
石崎了は、試合後氷水入りのバケツに脚をつっこみ、苦痛で表情をゆがめる岬の姿を何度も見かけたという。
プロの試合だけに、容赦なく相手に左脚を狙われることも多かった。
しかし、そのような姿が涙を誘い、ファンを増やすのも岬の人徳だろう。
何度倒れても立ち上がる岬の姿に勇気をもらったというファンは多い。
事実、イメージの良い岬は各種公的機関の啓発ポスターに起用されることが多かった。
恵まれない子にサッカーボールを寄付するといったチャリティ事業も行っていたようだ。
「ようだ」と書いたのは、彼がそのようなことを公言しなかったためである。
控えめな岬ならではの行動だろう(岬から偽善的なものを感じている一部評論家は「公言しなかったのは、たかりを恐れてのことだろう。岬のような性格だと頼まれたら断れず、結局自らの財産すべてまで渡しかねない」と悪意を持った見方をしている。事実は不明だが、岬の人の良さまでは否定していない)。
イメージが良いのも考え物で、熱狂的な岬ファンがファウルをした相手選手の家に放火したという事件まで起こったが、こんな事件は例外的だとしても、人に好かれる何かを岬が持っていることは疑いがない。

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岬太郎には再度、人生最大級の転機が訪れる。
日本初のワールドカップ優勝から二年後のことである。
黄金コンビと言われ、最大最強のパートナーであった大空翼が、こともあろうにブラジルへ帰化。
さらには、ルールを裁判で曲げて、ブラジル代表として岬の前に立ちはだかったのである。
このとき岬も誘われていたという説がある。
複数の関係者に確認したところ、皆言葉を濁したが、全面的に否定する者はいなかった。
岬太郎自身も曖昧な受け答えをしている。
当時、ブラジルサッカー界ではロベルト本郷が権力を握っており、あながち荒唐無稽な話ではないのかもしれない。
(岬太郎はその後大空翼がらみの話題に対して明確な態度を示すことがなかったため、岬を非難する声も一部で現れることになった。翼をかばう岬の優しさと解釈する説と、自らにも後ろめたいことがあったからだと解釈する説に分かれている。)

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真実はどうであれ、現実に岬は日本代表から離れることはなかった。
もちろん、フランスに帰化したわけでもない。
岬は日本に残り、新たなパートナー三杉淳と再度コンビを組むことを選択した。
すなわち、「新・黄金コンビ」の誕生である。
三杉も天才であったが、翼と決定的に違うのは、相手に合わせる融通性を持っていたことであった。
彼には先天的な心臓病に悩んだ時期があり、挫折を経験してきた人物であったことからか、相手に譲る心や、相手を立てる心を持ち合わせていたのである。
これまで相手に合わせる側であった岬には、新鮮な驚きであった。
往々にして、岬は翼に振り回されてきた感があった。
事実、一時期の翼のプレイにはついていけなかったと岬は語っている。
同時期の選手たちは、翼の行動に対して、増長や驕慢が感じられたときがあったと口を揃えて語っている。
試合中の行動もエキセントリックであった。
今も語り草なのが、対フランスの親善試合における逆走ドリブルである。
結果的に味方によって阻止され(それも相手にしていれば確実に反則というプレイで阻止された)、失点につながったこのプレイは、翼の天才性を際立たせる一例だろう。
このようなプレイについていける「天才」が果たして当時いただろうか?
岬太郎でなくとも、同じ境遇にいれば、皆、苦悩したのではないだろうか。
(同時期に大空翼が「あいつも俺のプレイについてこられなくなった」という主旨で岬を批判したという報道があったが、真相は不明である。捏造という説もあり、岬以外の誰かを批判したという説もある。)
いずれにせよ、「三杉と岬」は「翼と岬」に負けないほどのコンビプレイを見せた。
今も、どちらが上だったかという点において誰も答えを出せていない。
岬自身も明言を避けている。
ワールドカップの決勝戦で、三杉と岬は翼率いるブラジルの前に敗れた。
これを根拠に翼と岬の“旧”黄金コンビの方が上だと評価する向きもあるが、その試合はPK戦で決着がついた試合であり、試合中、三杉と岬のコンビは、翼とナトゥレーザのブラジル黄金コンビに対して互角の戦いを見せており、的外れな見解であろう。
(またしても余談だが、ナトゥレーザはこの大会のあと急激に衰えが見られたことから、翼のプレイについていくことに疲れ、つぶされたという説がある。また、大空翼がこれだけ人格的な破綻を見せながら、終生バルセロナにて選手生活を過ごしたのは、他チームが翼獲得を拒否したからというのが実際のところとされている。では、なぜバルセロナが次々と栄冠を獲得できたのかという件に対しては、「結局、あいつはひとりでサッカーをしていたのさ」という、若林源三が語った皮肉な言葉にすべてが集約されている。事実、バルセロナの選手は入れ替わりが激しく、ケガで引退していく選手も多かった。翼に潰されたという噂もあながち否定できない。)
岬はこのワールドカップ以降に代表から引退し、しばらくして選手としても引退している。
惜しむ声も多かったが、左脚の古傷がもう限界であったという。

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引退後はあまり表舞台に出ず、後進の指導に徹している。
彼自身、自分のことや黄金世代のことばかりが聞かれることを好きではないらしい。
言葉には出さないが、かつてヒーローだった大空翼をマスコミが一転してバッシングしたことに不快感と不信感があるのだろう。
大空翼はエキセントリックな性格ではあったが、その分、裏表のない純粋な人間であった。
岬太郎はそんな大空翼を知っていたから、バッシングに対して心を痛めていたに違いない。
この頃、フランス日本人学校に所属したころから親交のあった早川あづみとひそかに結婚している。
熱狂的なファンに騒がれるのを恐れてか、引退してから結婚したというのも彼らしい。
三杉淳が日本代表監督に就任した際には、岬は若林や松山と共にコーチとして入閣している。
苦労人らしく、実体験を基にした指導には定評があるようだ。
後に行われた大空翼の引退試合では、翼と往年を思わせるコンビプレイを見せ、ファンを魅了した。
結局、岬太郎という人物の評価として、一番妥当なのは、日向小次郎が残している次の言葉に尽きるのではないだろうか。
「岬は確かに翼や三杉やオチャドの惑星だったように思う。しかし、彼らは岬がいなければ輝くことがなかった」
日向小次郎にしては言い得て妙な表現である。
見方によっては、岬が彼らを育てたとは言えないだろうか。
大空翼は例外的な天才かもしれないが、三杉やオチャドは紛れもなく、そういう面があると思われる。
もちろん、彼らも岬に刺激を与えたに違いないが。
ふらの、明和、南葛、全日本ジュニアユース、全日本ユース、ジュビロ、パリSG、オリンピック代表、日本代表……いずれも強豪として鳴らしたチームだが、そのいずれにも岬が絡んでいることを忘れてはならない。
実は岬こそが優勝請負人なのではないか。
日本サッカーの黄金時代を築き上げたのは岬の力によるものが大きいのではないか。
本人に言えば、おそらく「そんなことないですよ」と謙遜するだろうが。

文責:片桐宗正(元Jリーグチェアマン)

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