二次創作・キャプテン翼黄金世代列伝「猛虎日向小次郎」その3

キャプテン翼小説
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運命のいたずらというべきか、明和と南葛は全国大会予選リーグで同じ組に入り、初戦で対決することとなる(ただし、このとき若林はケガのため出場していない。若林が出場したのは決勝のみである)。
若林の代わりにキャプテンとなっていたのが大空翼である。
日向が翼を意識したのは、日向と松山光が食堂で些細なことで揉めたのを、翼が制止したときであった。
「生意気なやつだと思った」というのが、大空翼に対する日向の第一印象であった(また、同じく松山光に対して「あんなプライドの高い奴に恥をかかせたのは大失敗だった」とも語っている。後にまで松山とは因縁めいたことがあったようだ。詳細は不明だが、森崎の著書では「松山は独占欲が強く、執念深いところがあった。いつまでもあの件は覚えていたはずだ」と松山の意外な一面を伝えている)。
日向は翼が静岡県大会で全試合ハットトリックを成し遂げているのを知り、同じストライカーとして(当時翼はFWであった)大いに意識したという。
翼と日向、両雄の激突は、若島津、若林の正GKを互いに欠いていたこともあり、点の取り合いとなった。
森崎がアゴにシュートをうけたのもこの試合である。
試合は7対6で明和の勝ち。
大空翼にとっては、公式戦では日本で唯一の黒星である。
非公式な試合を含めても唯一かもしれない。
敗北後、翼は涙を流していたという。
また、試合中、サッカーに対する考え方の違いから、翼と日向が感情をぶつけ合うこともあったようだ。
「あの頃はサッカーを楽しんでいる奴に嫉妬していた」と、日向は後に告白している。
この試合を観戦した三杉淳は「試合は明和が勝ったが、ふたりの勝負は引き分けといってよかった」と語っている。
技術では翼、力と勝負への執念は日向がこの時点では勝っていたと解釈するのが妥当だろう。
明和は次の試合で立花兄弟率いる花輪と引き分けている。
これにより、南葛は花輪に勝たない限り決勝トーナメントに進出できなくなった。
「南葛を予選で敗退させるために、わざと花輪に引き分けた」と日向は沢田タケシに話したようだ(もちろん、花輪も強豪に間違いなかったが、それ以上に南葛は強敵であったということだろう)。
真相を語る日向の姿には寒気を感じたと、勝負の鬼に徹した日向の恐ろしさを沢田は証言している。
残念ながら策略は成功せず、南葛は立花兄弟や三杉淳らの前に苦戦しながらも再び決勝の舞台へ駒を進めてきた。
日向もまた発熱により、対ふらのとの準決勝で大苦戦をしたが、若島津の復帰が奇跡的に間に合い、なんとか決勝に駒を進めた。

決勝では、南葛は若林が、明和は若島津が復帰し、両チームともにベストメンバーを組んだことで好試合が期待された。
しかし、この試合で日向は大きなミスを犯す。
日向は前半ペナルティエリアの外から、シュートを撃つことにこだわったのである。
「ペネルティエリアの外からのシュートはすべて止める」という、若林源三のSGGK(スーパーグレートゴールキーパー)伝説(当時そんな名称はまだ使われていなかったが)に挑戦したのであった。
日向がロングシュートを放った際、後にタレントとなる石崎了が「翼だってペナルティエリアの外からは決められないんだ。おまえに決められるものか」と日向を挑発したことがきっかけであった。
裏事情がある。
大会中、名門東邦学園中等部のスカウト陣が日向に接触し、日向か翼のどちらかを特待生として受け入れたいと煽る発言をしていたのである。
苦しい家計を抱える日向にとって、生活費が支給される上にサッカーを続けられる環境というのはのどから手が出るほど望むものだった。
大人びているといっても、まだ12歳の少年である。
「自分が翼より上と認めさせなければ……」と日向があせったのは無理もない。
この点について、東邦学園スカウト陣は大いに反省すべきだろう(罪滅ぼしか、このときのスカウトのうちひとりは、後に日向のプロモーション戦略を指揮し、成功させている)。
また、ことあるごとに現タレントの石崎了はテレビ番組にて「あのとき俺が日向に言ったひとことがなければ、南葛は優勝できなかった」とうそぶいている。
(三流ゴシップ誌などで日向がこの件に激怒していると伝えられているが、日向自身はコメントを求められた際「あの件については、自分の信念に基づいてしたことだから後悔していない」と余裕のコメントを返している。日向が本気で激怒しているとすれば、石崎がテレビで何度も発言するとは考えにくく、下種な勘繰りはやめるべきであろう。)
”東洋の守護神”若林源三のSGGK伝説であるが、これを破ったものは歴史上五人もいないと言われている。
そのうちニ人は若林がペナルティエリア外に飛び出したところを決めていることから、カウントすべきでないという意見もある。
また、ケガのためにわざと取りに行かなかったシュートもあるとも言われている。
その伝説を打ち破ることにこだわった多くのストライカーが絶望し、そして試合に敗れていった(余談だが、若林の失点率が低いのは、この伝説を吹聴して回っていたからだと揶揄する声もある。この伝説に敵ストライカーがこだわらなければ、若林は優秀ではあるけれども、歴史に名を残すほどのキーパーではなかったという説である。しかしながら、ペナルティエリア内に侵入するかどうかはストライカー側の自由であり、何よりもこの伝説を作り上げたこと自体が若林の実力を表しているといえよう)。
いずれにせよ、その伝説を打ち破ることにこだわった時点で、日向は若林の術中にはまってしまっていた。
前半終了まで日向のシュートはすべてミドルシュート以上のレンジで放たれた。
一方、南葛は前半終了間際に鉄壁の守備を見せていた若島津から、翼と岬が同時にシュートを放つという離れ業で1点を奪っている。
後に伝説となる「ツインシュート」である。
結局、前半日向は1点も取れなかった。

その4へと続く

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