二次創作・キャプテン翼黄金世代列伝「ファンキーガッツマン石崎了」その2

キャプテン翼小説
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話を石崎に戻そう。
「石崎くんが南葛に来て最初の友達だった」という翼の証言がある。
石崎自身も本心かどうかは別として認めている。
確かに、南葛に来て最初に知り合った存在が石崎であったことは間違いないようだ。
(ちなみに、「翼が南葛以前に所属していた学校から翼に会いに来た生徒は見たことがない」という某黄金世代選手の証言がある。顔見知りでも、後の三杉淳夫人である青葉弥生以外に見たことがないとのことだ。「南葛小以前に、人生で最初の友達だったんじゃないか」という意地悪な証言もその選手はしているが、選手名は伏せる。)
翼の評価はどうであれ、石崎は翼の刺激やロベルト本郷の指導により、着実に実力を高めていった。
南葛市では全国大会に出場するために選抜チームが作られたが、石崎も選出されている。
石崎のがむしゃらな姿勢が高評価を得たようだ。
ただし、実際は補欠であり、出場機会が訪れたのは全国大会予選リーグの最終戦、対花輪との一戦であった。
日向率いる明和と激戦を繰り広げた試合には出場していない。
DFの西尾浩司が立花兄弟と交錯し負傷退場したため訪れたチャンスであったが、石崎らしいというべきか、いきなり大きなミスを犯している。
クリアミスによる自殺点であった。
以降、石崎はたびたび自殺点を犯しチームに危機をもたらしているが、始まりはここであったという。
試合こそ勝ったものの、冷や汗ものであったと石崎は当時を述懐している。
ちなみに「自殺点の数なら黄金世代で俺が得点王だ」と発言したという説があり、一時インターネット上などでバッシングが相次いだが、本人は発言そのものを否定している。
また代表の試合で自殺点を犯したときに、若島津健から鉄拳制裁を浴びたという説もある。
いずれにせよ、「決してわざとやっているわけではない」と、いつもは何かとおどける石崎も、この件に関しては強く否定している。
相当なトラウマがあるようだ。

それでもなんとか翼や岬の活躍により、南葛は決勝まで勝ち残った。
再延長戦まで戦った南葛対明和の一戦は、歴史に残る一戦と言われている。
その決勝戦で石崎は日向に対して「若林からペナルティエリアの外から点を取ってみろ」という主旨の挑発を行ったことを認めている。
結果、東邦学園特待生の地位を狙っていた日向は、少しでもいいところを見せようと、前半戦はロングシュートにこだわることになる。
再延長戦までもつれた試合だっただけに、前半から日向が普通のプレイをしていたら歴史は変わっていたかもしれない。
そのため、「俺が影のMVPだ」とも石崎はうそぶいている(この発言については、ある時期から一切口にしなくなったことから、日向や若島津らになんらかの制裁を受けたのではないかという説もある)。

石崎の栄光は翼とともにあり、中学の大会でも全国優勝を成し遂げている。
特に三年時の戦いは翼がケガに苦しんでいたこともあり、大苦戦であったが、南葛、東邦同時優勝という形で幕を閉じている。
石崎は日向や松山のシュートに弾き飛ばされながらも、DFの一角として活躍している。優秀選手にも選ばれており、実力がアップしていたことは確かなようだ。
自殺点も犯すが、一方で危機的状況を決死のブロックで防いでいたことも事実であり、印象に残る選手ではあった。
中学卒業後はジュニアユース日本代表にも選ばれた。
敵ストライカーのシュートを恐れもせず、捨て身で頭からつっこむ姿勢はDFの鑑として他国のストライカーからも認められている。
いつしかその技は「顔面ブロック」と呼ばれ、石崎の代名詞にもなった。
特にジュニアユース大会決勝の対西ドイツ戦で、ピンチの場面でカール=ハインツ=シュナイダーのファイヤーショットを顔面ブロックで防いだことは、石崎のベストプレイのひとつとしてあげられている。
直後に脳震盪を起こして医務室に運ばれはしたが、日本はこの大会で西ドイツを破って見事に優勝している。
(余談だが、後にはコンクリート壁をへこませたというこのシュートを防いだことから、石崎の顔面はコンクリートより硬いのではないかという都市伝説も生まれている。)
高校時代は南葛高で岬太郎とともにプレイしたが、日向小次郎率いる東邦学園には最後まで勝てなかった。
しかし、石崎自身は成長し、その後もワールドユース代表、オリンピック代表に選出され、着実にステップアップを重ねていき、大舞台で大空翼とともに数々の栄光に輝いている。
その間、多くの自殺点を犯してはいるが。
ワールドユース大会アジア予選にて、三杉淳が仕掛けたオフサイドトラップを脚がもつれて台無しにしてピンチを招いたプレイは、繰り返し石崎伝説として語られている。
本人はそれをうまく笑いのネタにしているようだが、心中はどうであろう。
また、オリンピック予選のオーストラリア戦で自殺点を犯したプレイも有名である。
その試合は黄金世代にしては珍しい負け(翼や日向は出場していないが)であったため、後に辛くも本大会出場を決めたから良いものの、石崎も「人生で一、二を争う失敗だった」とその試合の録画を見るたびに冷や汗が出るという。

プロ入り後はJリーグのジュビロ磐田に所属し、一時は岬太郎と共にプレイした。
翼なきあとは、岬から刺激を受けることで、石崎は実力を高めていったようだ。
海外でプレイする機会はなかったが、Jリーグにおいては数回の優勝を経験している。
そして、大空翼とともに日本初のワールドカップ優勝にも貢献している。
再三の顔面ブロックがピンチを救ったことを特に明記しておく。

その3へと続く

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