二次創作・キャプテン翼黄金世代列伝「ガラスの貴公子三杉淳」その3

キャプテン翼小説

日本にはもうひとりゲームを組み立てる選手が必要だった。
見上が白羽の矢を立てたのが三杉淳である。
見上マジックという者もいるが、欧州における実績からも当然であったかもしれない。
三杉は期待に応えた。
元々、戦術眼の長けた選手であるが、コーチ経験や後方から全体を見渡せるDF経験をしたことで、各選手の癖や動きを完全に把握しており、他の選手たちは、あまりに受け取りやすいパスに驚いたという。
ちなみにDFの穴は、後に「アジア最高のリベロ」と呼ばれる松山光を再び下げることで修復した。
松山のいたボランチのポジションは、佐野満をコンバートすることで修復している(この件について翼びいきの評論家たちは、これまで翼の破天荒なプレイに感覚が麻痺していたため、三杉は受け入れられたのだと批判的な意見を寄せている。ただし、彼らも翼のプレイが周囲から浮いていたことについては否定しきれていない)。
「早熟の天才」といわれた三杉。
逆に言えば、「すでに終わっている選手」と見られていた三杉の復活には、周囲だけでなく、本人も驚いたという。
「この頃、もう一度クライフに憧れた昔を思い出したよ」とは、本来(?)のポジションに戻り復活した当時のセリフである。
三杉という恒星が輝くことで、岬太郎という惑星も本来の力を取り戻した。
翼と岬の黄金コンビに対して、ふたりの組み合わせは「新・ゴールデンコンビ」と呼ばれた。
「翼より三杉の方がやりやすかった」と岬が発言したという証言があるが、信頼できる資料には残されていない。
また、この手の意地の悪い質問に対して、岬が公式な場で回答することはなかった。
ただし、岬と親交の深いタレントの石崎了は、「ボクは凡人にすぎないよ」と岬が語ったとされるエピソードをテレビ番組の中で暴露している。
三杉びいきの評論家たちはこの発言を根拠に岬は三杉派であったと見なしている。

一方、私生活においては、この頃、弥生夫人が第二子、第三子と立て続けに出産をし、さらには大学にてスポーツ生理学を学ぶことで知識を増やし、夫を陰で支えていた。
スポーツインストラクターとしての資格もこの頃に得ていたようだ。
後に大空翼がブラジル国籍を取得し、スポーツ裁判所に認められた悪名高きロベルト本郷判決(代表経験があった選手は、他国籍を取得しても国際試合に出場できないというルールを覆した判決)によって、ブラジル代表として日本に立ちはだかったのは周知の事実であるが、日本中で翼バッシングが行われているのを横目に、三杉自身は翼と再び戦えることに高揚していたという。
小学生時代に一度対戦をしただけであり、しかも、そのときはお互いが全力を出し切れない状況であっただけに、もう一度、対等の条件で戦ってみたいと思うのは当然であった。
欧州でも彼らの対戦は実現しなかったが、サッカーの神は天才同士の対決に最高の舞台を用意した。
ワールドカップの決勝において、それは実現されたのだ。

この決勝戦は伝説に残る一戦となった。
神がかり的なプレイの連続に世界中の観衆が釘付けとなった。
翼、三杉双方が天才の名にふさわしいプレイを見せ、他のプレイヤーたちも全力以上の力を尽くした。
延長を戦い抜いて2対2の引き分け。
結果はPK戦へとゆだねられ、2対1でブラジルが勝利した。
若林、サリナス両キーパーの好セーブにより、スコアは2対1であったものの、双方が8回ずつPKを蹴っているという事実を特に強調しておきたい。
最後にブラジルはキーパーのサリナス自身がシュートを決め、日本は石崎が大きくゴールマウスを外した(このとき、石崎の号泣する姿がテレビ画面に大写しとなって好感を呼び、後のタレント化への布石となるのだから皮肉なものである)。
試合には敗れたものの、三杉と翼の対決は引き分けと言ってよく(評論家によって解釈は違うが)、三杉自身も翼と互角に戦ったことを満足していたという。
準優勝ではあったが、日本代表は当時不況にあえいでいた日本社会に希望をもたらしたとして温かく迎えられ、各選手たちへも世界中のクラブから好条件のオファーがもたらされた。
反対に非難の矛先となったのは、日本を裏切ったと見なされた大空翼である。
かつてのヒーローは日本中で大バッシングを受けた。
翼への再評価はかなりの歳月を待たねばならない。
また、翼がそれからまもなくしてケガが元で引退したこともあり、翼と三杉の対決が二度と見られることはなかった。
結果、選手として、三杉は翼に一度も勝てなかった。
この事実を見て、三杉より翼の方が優れていたという評価が定着しているが、わずか二回ほどの対決で優劣を競うのはナンセンスであろう。
ましてや、二回の対戦とも、三杉より翼の方がチーム戦力で優位であったことは、誰しも認めることである。
三杉に批判的な評論家諸氏の意見を集約しても、技術的には互角、パワーや試合勘でやや翼が優勢、しかし、戦術眼や視野の広さは三杉に軍配を上げる者が多い。
ましてや、MFだけでなく、三杉はDFとしても実績があるのだ。

三杉淳も翼の引退に合わせたかのように、自らも選手としては第一線から身を引いている。
心臓病の再発かとも騒がれたが、本人はその説を否定している。
医者として自分を頼りにしてくれている患者たちを放ってはおけなかったということと、何よりも大空翼との対決が不可能になり目標がなくなったということを、彼自身が後に理由として挙げている(この点についても当然諸説が入り混じっているが、ここでは触れない)。
選手としては退いた彼であるが、日本サッカー協会の役員として、また医者として第一線に残った。
数年が経ち、黄金世代以後の低迷に頭を悩ませた日本サッカー協会は、次期代表監督として三杉淳の名を挙げた。
一旦は固辞した彼であるが、岬太郎、日向小次郎、若林源三、松山光のスタッフ入りを条件に彼は受諾した。
結果、彼は監督としてもワールドカップ優勝を成し遂げることとなる。
選手と監督の両方でワールドカップ優勝を成し遂げたのは、日本人として初の快挙である。
大空翼が監督としてはまったく実績を残せなかったのとは好対照であった。
三杉はこの分野において翼を凌駕したのである。
この頃行われた翼の引退試合にも三杉は協力し、いろいろ邪推されていた翼との友好関係を改めてアピールしている。
この件について「日本サッカー協会にて重役の座を狙う三杉の政治ショー」と揶揄する声もあったが、イベントとしては大成功を収めている。
監督を勇退した後、彼はサッカー協会役員として後進の指導に当たっている。
将来のJリーグチェアマン候補とも噂されているが、本人は「興味がない」と一笑に付している。

医者としても実力は折り紙つきといわれ、自らの苦労があるだけに、患者に対して親身になってくれるとして評価が高い。
「三杉はサッカー界と医学界の両方で頂点を極めるかも」とは、松山光の弁である。
スポーツインストラクター養成学校を経営し、ビジネス面で多いに成功を収めている弥生夫人との間には三人の子宝(男二人、女一人)に恵まれ、しかも、長男は各世代にて代表に選出され、将来の活躍が期待されている。
生まれつきの心臓病に苦しんだ三杉であるが、そのような経験が彼をここまで成長させたと考えるのは話としてできすぎか。
今もサッカー雑誌などで黄金世代について人気投票を行うと、三杉淳は岬太郎や若林源三と首位の座を争う。
大空翼が十位前後を彷徨うのとは対称的である。
ほとんど苦労知らずであった大空翼に対して、栄光とどん底の両方を味わった三杉淳は、日本人の心に訴えるものを持っているのかもしれない。
「ガラスの貴公子 三杉淳」――その名はこれからも日本サッカー界にて永遠の輝きを放ち続けることだろう。

文責:片桐宗政(元Jリーグチェアマン)

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