高校時代は岬にとってスランプの時期であった。
日本に帰国し、南葛高校のキャプテンとして、かつての仲間を率いて戦う岬であったが、日向小次郎率いる東邦学園の前に三年間歯が立たなかった。
ユースの試合でも不調は続き、オランダユースとの親善試合で大敗するということもあった。
黄金世代の数少ない敗戦である(この試合、日向は高校大会決勝の試合でケガをしたため、まともに出場していない。三杉も心臓病を克服する前であり、翼もブラジルに滞在中であった。翼が緊急帰国してやっと日本は勝利を収めた。しかし、オランダ側もキャプテンのクライフォートが出場していない)。
ワールドユース大会前の合宿では、厳しい指導で知られた賀茂港監督の前にレギュラー落ちを宣告される屈辱も味わっている。
真意は殻を破れない主力選手たちに対する檄の意味があったようだが、岬はその意を悟ったのか、腐ることなく賀茂の指導に従い、海外を放浪して研鑽に励んだ。
(このとき、日向小次郎が激高したのを岬がひとことで納得させたと沢田タケシは伝えている。「岬さんは日向さんの弱みでも握っているのだろうか?」と、沢田は本気で思ったという。この沢田の証言に対して、著書「黄金世代を一番後ろから見ていた男」で知られる森崎有三は、「岬は明和時代にキャプテンを打診されたが、日向に譲ったのではないか」と推論を寄せている。あくまで推論に過ぎないと森崎は断っているが、この論は「かつて森崎が日向から顎に強烈なシュートを浴びたことを恨んで飛ばしたデマ」などとマスコミが煽ったため、一時期騒ぎになった。後に若島津健が得意の空手で森崎と沢田を殴打して手打ちにしたという噂があるが、真相は明らかではない。)
話を岬へと戻そう。
せっかく海外を武者修行した岬であるが、成果をろくに披露する機会もなく、さらなる不幸がワールドユース本大会直前に訪れる。
突然の交通事故であった。
左脚を撥ねられるという重傷であり、ワールドユース大会どころか、選手生命までが危ぶまれた。
車にはねられかけた妹を救おうとした、実に岬らしい負傷であったが、サッカーができない悔しさから、「自暴自棄になることもあった」と岬はこの時期の自分を回顧している(余談だが、黄金世代は交通事故と因縁のある者が多い。大空翼は幼い頃トラックに撥ねられたが、サッカーボールがクッション代わりになり無傷だったといわれている。これは翼の天運を表すものだが、日向小次郎は事故で父親を亡くし、若島津健は小学校時代に子犬を助けようとしてトラックに衝突し、しばらく入院している。松山光の夫人である美子も交通事故で命が危ぶまれたことがあり、カール=ハインツ=シュナイダーの妹マリーは、危ういところをジノ=ヘルナンデスに助けられたという。のちにシュナイダーの妹はヘルナンデスと結婚しているが、この出会いがきっかけであるそうだ)。
当時の主治医らは、優等生だった岬が感情を爆発させる姿を何度も目撃したと供述している。
しかし、「彼の中にある闘志のすさまじさを見た」と決して否定的な見方はされていない。岬の人徳と言うべきか。
岬の執念は実る。
日本の精鋭たちは苦戦し、何度も「岬がいれば・・・・・・」と口にしたが、さすがに黄金世代だけあって、苦しみながらも決勝戦まで勝ちあがったのである。
しかし、決勝の相手であるブラジルユースだけは勝手が違った。
カルロス=サンターナ率いる当時のブラジルユースは、ドイツユースを相手に5-0勝つほどの最強布陣であり、さらに当時のブラジルユース監督は、翼の師であるロベルト本郷であったことから、翼の癖をはじめ、翼にボールを集める日本の戦術を的確に見破り、翼が孤立させることに成功していた。
日本は防戦一方であった。
(なお、ドイツはブラジル相手に大敗しているが、「若き皇帝」と呼ばれたエースFWシュナイダーと、「鋼鉄の巨人」の異名を取ったGKミューラーは、スウェーデンユースとの試合で負傷したため出場していない。ドイツの名誉のために補足しておく。)
「岬がいれば・・・・・・」
「このときほど岬の存在の大きさに気づかせられたことはなかった」と黄金世代の面々は事あるごとに口にしている。
が、天運にも恵まれているのも黄金世代である。
彼らの願いは天に通じた。
懸命のリハビリを終えた岬が、後半途中にピッチへと登場したのである。
ブラジルユース監督のロベルト本郷は、前半終了時点でブラジルの勝利をほぼ確信していたというが、唯一気がかりであったのは、岬太郎の存在であったという。
翼と岬のコンビプレイは想像を超えたプレイを実現させる。
いくら緻密な計算をしたとしても、それ以上の力を出すのが彼らである。
わずかとはいえ岬に対しても指導経験があるロベルト本郷だけに、その怖さは誰よりも知っていた。
事実、ロベルトの完璧な計算を崩したのは岬であった。
ピッチ投入直後は久々の実戦に戸惑った岬であったが、日本の追加点は翼と岬の雷獣(別名スカイウイング)ツインシュートから生まれる。
単独ではなくふたりでというのが、また岬らしいではないか。
(余談がふたつある。ひとつは岬がどうして雷獣シュートを撃てたかということである。日向小次郎が苦心して生み出したシュートをいとも簡単に放つのは、いかに岬の才能でも厳しいのではないか、また、練習をしていたとしても、脚に負担のかかるシュートをわざわざ練習するとも思えないということから、今もこの件に関しては謎が解けていない。岬自身も「あれは神の足だ」と答えている。もうひとつの余談は、岬の事故はロベルトの陰謀ではないかという説である。ロベルトも岬も一笑に付しているが、当時ロベルト本郷はブラジルサッカー界において不安定な地位にあり、この大会での優勝は至上課題であったことから、信憑性が高いと証言するものもいる。愛弟子である翼を傷つけるには忍びなく、岬を狙ったと彼らは推論するが、後にロベルト本郷が翼かわいさで行った職権乱用などから来るダーティなイメージによって、付加された逸話にすぎないだろう。)
岬にとって、スランプであった高校時代ではあるが、最後は優勝によって締めくくられた。
ところが、左脚のダメージは大きく、岬は再びリハビリ生活へと逆戻りすることになる。
その後は常に左脚のケガと付き合い続けることになった。
この時期、パリSGを初め、複数の海外クラブが岬に目をつけていたというが、左脚の具合からどのチームも断念したようである。
そのような事情もあり、岬自身もまず国内からという意志を固め、Jリーグジュビロ磐田に所属してプロ生活を開始する。
石崎了や浦辺半次ら気の合ったメンバーも所属したこのチームで、岬は中心選手として活躍し、コンサドーレ札幌の松山光やFC東京の三杉らと死闘を繰り広げた結果、見事Jリーグ優勝を遂げる。
U-23オリンピック代表にも選ばれ、アジア予選を大空翼・日向小次郎・若林源三ら海外組抜きで勝ち抜き、岬は独り立ちできたと評価を受けた。
アジア予選はオーストラリアに敗れるなど、苦戦の連続であったが、最後は岬の華麗なシュートで本戦出場を成し遂げている。
このとき、岬の独り立ちにきっかけを与えたと言われているのが、のちにパリSGにてコンビを組むJ・J=オチャドというのが、因縁めいていて面白い。
元々、パリSGは岬を獲得する予定であったが、ケガが理由でオチャドの方を選択したと言われており、オチャドは岬に対して敵対心を抱いていたという。
親善試合で両者はぶつかり合うが、当初オチャドは岬の闘争心のなさに失望したという。
「あのとき『おまえは戦士じゃない』と言われたひとことが、ボクの心を開かせるきっかけになった」と、後に岬太郎は語っている。
この試合では、ロスタイムに岬がポストに激突しながらも執念の1点を奪い、引き分けに終わっている。
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