八百長疑惑発覚後、当然、多くの主力選手たちがチームを去った。モネッティ監督を始め、コーチ、スタッフのほとんどが去っていった。
日向もまた選択せねばならなかった。セリエCで活躍した彼には複数のセリエAチームからもオファーが舞い込んでいた。
しかし、日向はユベントスに残留することを選択した。
「まだ、俺はこのチームで何も働いていない。借りは返さねば……」
日向以外に主力でユベントスへ残った選手は、DFのサルバトーレ=ジェンティーレくらいのものだった。
「『一年でセリエAに復帰させてやる』と途方もないことを本気で言った日向に付き合ってみたくなった。大和魂というやつを見てみたくなった」と、のちにジェンティーレは語っている。
ユベントスの新経営陣は一時的な収入減をやむをえないと判断し、一刻も早いセリエA復帰こそが必要と考えたようだ。
人気偏重のベテラン選手を切り、将来性のある若手を積極的に獲得する実利的な方法を選択した。
これが成功した。特に、当時インテルにて控えに甘んじていたGKジノ=ヘルナンデスの獲得は大当たりと言えた。
ジェンティーレとの連携による鉄壁の守備は、セリエBシーズン最小失点の記録を塗り替えたほどである(ユベントス経営陣は当時ハンブルグで監督と反発し干されていた若林の獲得を目指していたという説もある。若林も接触があったのは事実と認めている。若林が古巣への借りを返すことにこだわったため実現しなかったが、実現していれば黄金世代の歴史は変わっていたかもしれない)。
結果、ユベントスは勝ち点マイナス15からの絶望的な状況にも関わらず快進撃を重ね、見事セリエBで優勝。
一年でのセリエA復帰を実現する。
敗れたのは彼らのうち誰かが累積警告やケガで出場できなくなった試合くらいのものであった。
しかも、日向にはセリエCに続く得点王の栄誉が与えられた。
トリノ市民はこの快挙に歓喜した。
「ジャパンマネー目当てに獲得した選手」程度にしか見られていなかった日向は、今やトリノの英雄であった。
この頃、本来ならユベントスも出場していたはずの欧州チャンピオンズリーグにて、大空翼率いるバルセロナが優勝したことを日向は知る。
うらやましいとは思いながらも、当時は雲の上の話だと感じていたという(日向はこの後チャンピオンズリーグに数回出場するが、最高で準決勝止まりであった。日本人で優勝経験があるのは、バルセロナに所属した大空翼とバイエルンにて優勝を果たす三杉、若林だけである。岬も準優勝止まりであった)。
今までの鬱憤を晴らすかのように、次シーズンもユベントスの快進撃は続いた。
守りはジェンティーレとヘルナンデス、攻めは日向、そして弱点だった司令塔もブンデスリーグ、ブレーメンからフランツ=シェスターを獲得することで補強した。
ブレーメンの騎士と呼ばれたシェスターは、一時期伸び悩んでいた選手であったが、北イタリアの水は彼に合ったのか、元々定評のあったスルーパス技術に独創性が加わり、世界でも屈指の司令塔として評価されるようになった。
日向のプレイスタイルにも変化が現れていた。
これまで日向はシュート力を高めることが得点につながると考えていたが、考え方を改めたのである。
きっかけとなったのは、アルゼンチン代表FWアラン=パスカルのプレイを見たときだったとされている。
パスカルは長くファン=ディアスとコンビを組んでいた選手であったが、ディアスの成長についていけていないと一時酷評されていた。
パスカルは考えた。
「自分の長所は何か? ディアスに対してもこれだけは勝てるというものはなにか?」
パスカルの長所はスピードと反応の良さであった。
『世界のリバウンド王』
後にパスカルへ与えられた称号である。
ゴール前でこぼれたボールに世界中の誰よりも早くパスカルは反応した。
腕以外のすべてが、彼にとってシュートを放つ部位であった。
ボテボテのゴロでも、ポップフライでもよかった。
転んでも、ひっくり返っても彼は点を取った。
結果、アルゼンチンの点取り屋として、ディアスと共に世界の強豪を震え上がらせた。
がむしゃらに点を取りに行く姿は、日向に小学生時代のような荒々しさを思い出させた。
どんな強烈なシュートでも、ボテボテのゴロでも1点は1点にかわりない。
日向から強烈なシュートが姿を消したわけではないが、ある時期から日向の得点がさらに増えたのは事実である。
日向、ヘルナンデス、ジェンティーレ、シェスターは全員が同い年であったことから、イタリアでも黄金世代と呼ばれ、今でもこの頃はユベントスの黄金時代だったと語られている。
チャンピオンズリーグこそベスト4で敗れたものの、このシーズンにおいてユベントスはセリエAを無敗で優勝。
日向もまた得点王に輝き、セリエA最優秀選手にも選出され、欧州最優秀選手の候補にも選出された(欧州最優秀選手は大空翼であった)。
日本人初のセリエA得点王であり、セリエAからCまですべてで得点王に輝いた選手は、日本人という垣根を越えても日向小次郎しかいない。
日向はそのあと5シーズンをユベントスで過ごし、三度の得点王と四度のセリエA優勝を成し遂げている。
チャンピオンズリーグ優勝こそは成し遂げられなかったが、大空翼、若林源三、三杉淳、岬太郎との対戦も実現し、日本のサッカーファンを喜ばせた。
また、日本代表としてワールドカップ優勝やオリンピック優勝も成し遂げている。
「ユベントスの猛虎」
いつしか、日向はイタリアでも「猛虎」と呼ばれるようになっていた。
大空翼がブラジルへ帰化した件について、日向は多くを語らなかったが、失望している様子が見られたと若島津健は語っている。
それでも、翼がブラジル代表として出場したワールドカップの決勝にて、翼と再び対決したときにはうれしそうな表情を見せていたともいう。
日向がもっとも燃える相手は大空翼をおいて他なかったのだ。
ちなみに、二度目のワールドカップ出場の際に日向は得点王に輝いている。
彼は今や世界一のストライカーと言ってもよかった。
一連の翼バッシングについても、他の黄金世代の選手たちと同様、沈黙を貫いた。
口の悪い評論家たちは「翼の奇行については日向も反感を持っていたはず」と断定するが、それでも不満を口にしなかったのは彼が大人物である証拠だろう。
ワールドカップ終了後、日向は母親が病気がちだったこともあり、日本へ帰国。
地元埼玉の浦和レッズに所属する。
若島津も合わせたかのようにオランダから帰国し、浦和に所属することを選択した。
当時、浦和には沢田タケシが所属し、チームを支えていたが、成績は低迷していた。
日向と若島津の帰国は沢田に大きな刺激を与え、また、ふたりは桁違いの実力をいかんなく見せ付けた。
レッズはその年、逆転優勝を果たしている。
往年のファンたちは三人が一緒にプレイする姿を見て涙したことだろう。
(一説によれば、若島津にはプレミアリーグなどから誘いがあったとされているが、日向から浦和に誘われたことで帰国を決意したという。若島津にも沢田を助けたいという気持ちがあったようだ。一部で、若島津が未だ独身を貫いていることから、若島津が日向に対して特殊な想いを抱いているという説があるが、そのあたりは想像力のたくましい人たちに解析を任せることにする。)
Jリーグでも得点王となった日向は、日本人初の二カ国で得点王に輝いた選手となった。
この頃、ソフトボール日本代表選手の赤嶺真紀と結婚し、翌年には子宝にも恵まれている。
(欧州のクラブから多数のオファーがあったのに断ったのは、結婚のためと揶揄する声もあったが、病気がちだった母親に孫の顔を見せたいという思いが強かったと考えるのが自然だろう。ただし、日向の妹である直子が前年に沢田タケシと結婚し、しかも結婚時には子種を宿していたため、孫がすでに生まれているのも事実ではある。ついでに日向の家族について語っておけば、弟の尊は兄と違う野球の道へと進み、現在プロ野球埼玉西武ライオンズのレギュラー外野手として活躍中である。兄を彷彿とさせる豪快な強打が売り物である。また末弟の勝は兄二人とは違う才能を持っていたようで、IT業界において青年実業家として成功している。)
Jリーグで三シーズンを過ごし、日向は引退した。
長年の敵DFからによるプレッシャーによって、彼の肉体は限界に達しており、また年齢から来る衰えを彼自身感じていたようだ。
なにより、世界一のストライカーにとって、無様なプレイを見せることは納得がいかなかったのだろう。
引退後は浦和レッズのアドバイザーとして、世界中のサッカーを視察し、チームにアドバイスをする仕事を続けている。
また、三杉淳が日本代表監督に就任した際にはコーチ就任の声がかかり、熱血指導で後進から信頼を寄せられている。
コーチ経験により、監督業についても意欲を持ち始めたとも言われている。
「親に楽な生活をさせてやる」
「世界一のストライカーを目指す」
貧しい家庭に育った少年は自分を信じて突き進み、いつしか夢をかなえた。
日本のみならず、世界のサッカー界に大きな足跡を残した彼は、後進にその経験を伝えていくことだろう。
文責:片桐宗正(元Jリーグチェアマン)
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