二次創作・私が考えたキャプテン翼の最終回 その2

キャプテン翼小説
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当時の日本代表を率いた見上辰夫監督は規律や調和を重んじる人物であり、翼の増長や奇行に対して、理解する器を持ってはいなかった(かといって誰も彼を責めることはできないだろう)。

見上は現実的で冷静な判断を下した。
すなわち翼のスタメン落ちである。
サッカーは11人でするスポーツである。
チームの和を乱す選手はたとえ能力が優れていても必要がなかった。

翼の代わりとなる司令塔は岬太郎ではなく、三杉淳が務めた。
見上の判断は吉と出る。
DFからFWまでをこなすユーティリティプレイヤーとして知られた三杉は、翼の代わりを十分に務めた。

翼の代わりどころか、翼以上ではないかという評価もあった。
特にチームメイトとの連携に関しては、翼より圧倒的に上であった。
岬太郎とのコンビプレイは「新ゴールデンコンビ」との異名をとり、もうひとりの天才(こちらは否定的意味を含まない)三杉淳の“復活“であると評された。

常識人であり、また心臓病のハンデを克服してきた苦労人でもある三杉は、一時指導者としての勉強もしており、他選手たちの長所と短所を見極めることに長けていた。
長所を生かすことに主眼を置いたプレイは、各選手の個性を引き出すことに成功し、チームメイトおよび見上からの信頼を得た。

「翼からのパスに合わせるには、常に100%の緊張感を保っている必要があったが、三杉からのパスは気づけば足元に来ているという感じだった。極端にいえば、フィールドで寝ていても目を開けたときには絶好の位置に転がっているという感じだったかな」とは、かつて翼のライバルと目され、後にセリエAとワールドカップの舞台で日本人初の得点王となった“猛虎“日向小次郎のコメントである。

遠いスペインの地でプレイしていたこともあり、大空翼には試合への出場どころか、代表戦に召集されることさえなくなった。
彼自身も苛立ちを感じていたのだろう。
日本中のサッカーファンを震撼させた”あの事件”が起こったのはそんなときであった。

『大空翼、ブラジルへ特例で帰化!!』
そんな見出しが、スポーツ新聞のトップだけでなく、一般紙のトップまでを飾ったのは20××年×月×日のことである。

しかしながら、いくら帰化したとはいえ、日本代表として国際試合で活躍していた彼がブラジル代表でプレイすることはこれまでの規則上不可能であった。
多くのサッカーファンは「また翼的な奇行か」と冷笑していたが、さらに驚愕のニュースが伝えられると、翼に対する嘲りは怒りへと転化された。

悪名高き『ロベルト本郷判決』が生まれた経緯には諸説あって明らかではない。
翼の考案によるもの、当時ブラジルサッカー界で権力を奮い、政界とも太いパイプを持っていたという翼の師匠ロベルト本郷によるもの、あるいはスポーツ訴訟専門の弁護士による入れ知恵と一般的にはいわれている。

さらにはブラジル政界による介入も噂されている。
真相は明らかになってはいないが、少なくともなんらかの政治的工作が行われていないと実現が難しかったのは事実だろう。

いずれにせよ、国際スポーツ裁判所にロベルト本郷の名で持ち込まれた『国際試合への出場経験が十分な選手においても、他国に帰化した場合はその国の代表として出場することを認めるべき』というこの要求は、異例のスピードで審査され、承認された。

一説によれば、次期ワールドカップまでの期間が一年しかなく、翼側があせっていたといわれている(この判決によって、金で南米から優秀な選手を買い取り、自国へ帰化させる国々が続出することでサッカー界の勢力地図が変わり、結果的にブラジルは自分で自分の首を絞めたことになるわけだが、本稿の主旨とは違うので、これ以上は触れない)。

その3へ続く

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