指定された料亭の一室で私はその老人と出会った。
「銭形警視正お久しぶりです」
「もうワシは引退した身だ。警視正はよせ……」
部屋に入りあいさつをすると、老人は気恥ずかしそうに、そう語った。
銭形幸一氏は、警視庁に採用された後、埼玉県警に出向。
さらにはインターポールに派遣され、世界的な怪盗ルパン三世に関する件の専門家として、定年近くまで世界各地を飛び回っていた伝説上の刑事である。
もう七○近いはずだが、身体は現役時代と変わらず引き締まったままだ。
さすがに、髪に白いものが混じってはいるものの、今も最前線で働く刑事と言われても、不思議ではない貫禄にあふれていた。
「これは失礼しました。昔の癖がどうしても抜けなくて……」
「ふん、おまえも警察を辞めてからずいぶんとブン屋稼業で稼いでいるらしいじゃないか」
「とんでもない……毎日が自転車操業ですよ」
挨拶がわりの会話を交わすと、酒と先付が運ばれて来た。
私は銭形氏に一献勧めた。
氏は力強くそれを口に流し込んだ。
「それで、今日は何を聞きたいんだ?」
銭形氏は私にも酒を勧めて問いかけてきた。
「ルパン一味のことです。私はあなたとルパン三世の関係をずっと調べてきました。あなたはルパンを何度も追い詰めたが、結局逮捕できなかった。しかし、何度かルパンを見逃した可能性があることもわかりました。それがなぜなのか、私は知りたいのです」
銭形氏は特徴的な割れた顎に手をやり、しばし、難しい顔をしていた。
当然の反応だろう。
「あなたは、警視総監か県警本部長にもなれたという刑事だった。それが、ずっとルパンを追いかけたいという一心でインターポールに所属し続け、結局、出世を棒に振った。ところが、定年間近になって、急にルパンを追うことを辞め、インターポールを去り、警視庁に戻った。この心変わりがどうしてもわからない」
「歳をとり疲れただけさ」
「ごまかさないでください。家族の存在を顧みず、ずっと海外を飛び回っていたあなたがそんな簡単にルパン逮捕を諦めるとはどう考えてもおかしい」
「それはジャーナリストとして聞いているのか、それとも息子として聞いているのか、どちらだ?」
「……その両方として、です」
私は興奮したことを恥じながらも答えた。
「おまえもまだ若いな、わが息子よ。今日はジャーナリストとして、取材を申し込んだのではないのか?」
返す言葉がなかった。
「だが、もう話してもいい頃だろう。ワシも歳を取った。後世にルパンから逃げ出した刑事と言われてもたまらんからな」
そう言うと、銭形氏はもう一杯酒を流し込んだ。
「ワシとルパンが最後に出会ったのはカリオストロ公国だ」
「カリオストロ公国というと、ヨーロッパの小国の?」
私は国と国が密集する欧州地図の隙間に位置する小国の形を思い浮かべていた。
「そうだ。かつては悪い貴族がいてな。偽札作りなどで一儲けしていた」
銭形氏は遠い目をしていた。
何か特別な思い入れがあるかのような表情だった。
「あそこの公女にクラリスという人がいてな。ワシやルパンとは若い頃に少し縁があった」
「聞いたことがあります。ルパンが大活躍し、公女を救い出したという話でした」
「ふん、まあ、泥棒が公女を救い出すというのも不思議な話だが、そんなところだ。しかも、ルパンは若い頃クラリス公女に命も救われたこともあるしな……ところで、数年前、ゴート札が出回った時期があったのを覚えているか?」
「はい、世界中で見つかり、大騒ぎになりました」
ゴート札というのは、中世以来ヨーロッパの動乱に必ず関わり、世界経済に影響を与えていたと言われている史上最も精巧と言われる偽札で、かつてカリオストロ公国で印刷されているのを、銭形警部(当時)が暴いたという武勇伝がある。
「その偽札がかつてカリオストロ公国からルパン一味に盗み出された原版から刷られたという噂が出て、ワシは捜査に出かけたのだ。反対したがね」
「反対?」
「ルパンという男が偽札作りなどするとは思えなかったからだ」
銭形氏は複雑な表情を見せた。
この人はルパンを不倶戴天の敵と見ていたと思われる反面、ルパン三世を尊敬しているかのような素振りがあった。
ルパンを一種の義賊とみなしていたのだろうか。
「ルパンという男は、金が欲しくて盗みをしていたのではない。スリルを楽しんでいる、ワシはそんな風に思っていた」
確かに銭形氏の言うとおりかもしれない。
ルパン三世は多くの美術品などの窃盗を成功させ、巨万の富を所持していたはずだ。
何度もリスクを犯して盗みなどしなくても、一生遊んで暮らせたはずなのに、彼は仲間と共に盗みを繰り返した。
それも予告状まで出して。
そこにあった理由はなんだったのか……
「確かにルパンにはそう思われる節があります。事実、あなたはルパンのアジトを何度か発見し、潰して行きましたが、盗まれたものはひとつも発見されませんでした。これはルパンが闇のマーケットで、収集家たちに売りさばいたからだと言われています」
「そのとおりだ。ワシもそんなことを考えていた。しかし……」
「ちがったというのですか?」
複雑な表情をしながらも、銭形氏は頷いた。
しばし、気まずい空気が流れた。
「それで、あなたはルパンを見損なったというわけですか?」
「どちらとも言えん……」
「えっ?」
「ルパンはどうしても金が必要だったのだ。ある理由でな」
料理が運ばれてきたので、一旦、会話が止まった。
銭形氏は若干、顔を赤らめていた。
あまり酒に強いタイプではないことを私は知っていた。
だから、飲ませれば、少しは口が軽くなるかなという計算もあった。
ただし、酔い潰してはならない。
この人は泣き上戸でもあったからだ。
「ある理由というのを聞いてもいいですか?」
銭形氏は料理を何口か胃袋に流しこんでから話を始めた。
「カリオストロ公国のクラリス公女が慈善事業家として有名なのは知っているな」
「はい、私財を投げ売ってまで、恵まれない子供たちを多く救っているという話ですが」
「ああ、だがよく考えてみろ、あんな小国にそんなに財産があると思うか?」
「えっ?」
言われてみればそのとおりだった。
実際、クラリス公女は何万人もの子供たちを救っていると聞いたことがある。
それも、公国に迎え入れて、高等教育まで受けさせているという話だ。
小国の財産といってもたかが知れているだろう。
財宝や土地を売ったところで、それほど多くの子供が救えるものなのだろうか。
「まさか……」
「そのとおりさ、スポンサーがいたのさ。ルパン三世という」
青天の霹靂だった。
これならルパンが盗みを繰り返していたという点と、盗んだ財宝が闇に消えたという辻褄が合う。
もちろん、予告をしていたところなどは、スリルを味わっていた面もあるだろうが、それさえもどこか心の隅に申し訳なさがあったとするなら……
「現代の聖女と呼ばれるクラリス公女が泥棒から援助を受けていたなんて……」
「いや、おそらく、クラリス公女は何も知らないさ……彼女は純粋なお姫様だ。ルパンが毎回偽名で金を振り込みでもすれば、どこかの篤志家が寄付してくれたと思っていたことだろう」
「そういうものなのですか……」
「ああ、だがルパンも年老いた。ルパンだけじゃない。次元大介も往年の早撃ちができなくなったし、石川五ェ門も腕が錆びついた。峰不二子だって、金持ちをたらしこむ美貌が衰えた。もう盗みはできなくなったのさ」
「それで、偽札を作り始めたと」
「だろうな……」
「それで、あなたはルパンを追いかける情熱を失ったというわけですか?」
銭形氏は強い視線を私に向けた。
長年、第一線で活躍した刑事の視線は、わずか数年で警察を辞めてジャーナリストに転身した私には強すぎる視線だった。
「ワシがカリオストロ公国に入り込み調べを始めているうちに、ルパンのほうがワシに接触してきた。ワシらはお互いの立場を離れて、酒場の一角で話し合った。思えば本音で奴と語り合ったのはあれが最初で最後だったかもしれない……奴は頭を下げてワシに言ったよ、カリオストロにだけは触れないでくれ、と」
また銭形氏は遠い目をした。
うっすらと涙が滲んでいるようにも見えた。
「頭を下げるルパンの姿にワシは寂しくなったよ。お互い年老いたんだな、と。ワシが追いかけ続けたルパンは、どんなに追い込まれても最後まであきらめないしぶとい奴で、いつも遊び心を忘れない小粋な奴だったのに……」
涙が一筋流れていた。
このあたりの心情は長年のライバルにしかわからない気持ちだろう。
「だがな、さすがはルパンだった。決してルパンは純粋な篤志家だったわけではない」
「どういうことですか?」
「奴は子供たちの学校に教師を送り込んでいた。ルパンの思想に合う教師を、な」
「ルパンの思想?」
「思想というと少し難しくなるが、簡単にいうと、カリオストロの教育システムを利用して、ルパンにとって都合のいい人材を作り上げていったわけだ。そして、その人材は今や世界の最先端で多数活躍している。政治、軍事、コンピュータ、スポーツ、芸能……クラリスの子供を救いたいという願いとルパンの思惑は一致していたわけだ」
「つまり……」
「そう……奴は世界を盗んだのさ」
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