二次創作・私が考えたキャプテン翼の最終回 その3

キャプテン翼小説

翼はブラジル代表監督に新たに就任したロベルト本郷の下、“天才“翼の意図するプレイにおそらく50%程度は理解を示した”サッカー王”ナトゥレーザとコンビを組み、生き返ったように自由奔放にサッカーを楽しんだ。
ブラジルのおおらかな国民性とサッカーに対する姿勢が翼に合ったのかもしれない。
結果、ブラジル代表としてワールドカップ優勝の栄冠を再び受けることとなった。
二カ国でワールドカップを抱く栄誉を受けた選手となったのである。
しかも、よりによって決勝戦の相手は三杉淳率いる日本であった。
日本国民の翼に対する怒りはサッカーファンだけでなく、一般国民にまで広がっていった。
マスコミが煽ったこともあるが、翼は危害を恐れ、日本にいる両親や弟をブラジルに避難させたほどである。
かつての日本サッカー界の英雄は一躍ヒール(悪役)として扱われることになった。
翼の過去の奇行など、プライバシーは次々と暴かれ、名誉は地に落ちた。

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因果応報かどうかはともかくとして、ブラジル代表としての彼は長続きしなかった。
リーガエスパニョーラ(スペインリーグ)での対アトレチコマドリード戦、彼はかつてユース時代の試合で自分を苦しめたタイ代表DFブンナークと再会する。
元ムエタイチャンピオンという異色の経歴を誇る彼は、反則ギリギリのパワープレイを得意としていた。
誤解なきよう先述するが、この試合でブンナークは反則をひとつも犯してはいない。
ただし、大空翼というサッカーの歴史上1,2を争う名選手に引導を渡した人物となったのは事実であった。
後半30分、どの選手も疲れが出てくるこの時間帯に、ブンナークのショルダーチャージに対して翼がバランスを崩したとき、互いが疲れていたこともあってか脚同士が絡み合い、もつれることになった。
そのとき翼のアキレス腱が悲鳴を上げた。
アキレス腱断裂は重いケガであったが、それはきっかけのひとつに過ぎなかった。
長年、他チームのエースキラーから攻撃を受けてきた翼の肉体は、想像以上にボロボロであったのである……翼は飛べなくなったのだ。

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それでも懸命のリハビリを続けていたが、故障箇所をかばっている内に他の箇所を傷めるという悪循環に陥った。
満足のいくプレイはもはや彼には不可能だったのである。
天才肌の彼のこと、いくらサッカーが好きとはいえ、思い通りにならないプレイをすることに耐えられなかったのだろう。
引退を表明したのは、前述のケガから10ヶ月後のことであった(なお、この間に思い通りのプレイができないことに苛立った彼が「やっと石崎くんあたりの(下手糞の)気持ちがわかったよ」という発言をしたという逸話がまことしやかに伝えられているが、この件について翼は否定している。おそらくはインターネット上などで作られた話が悪意を持って広まったというのが真相であろう)。
日本のマスコミはしばらく「ざまあみろ」という論調であった。

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しかし、月日が経つにつれて、翼を再評価する動きが始まった。
きっかけは、皮肉にも日本代表が黄金世代の引退により、ワールドカップ出場を逃したということであった。
敗戦に打ちひしがれた日本人は、日本サッカーがもっとも輝いていた翼時代へ憧憬を抱いたのである。
さらには日本代表監督を務めていた三杉淳が翼を擁護する発言をしたこともあり、徐々に翼復権の風潮が高まった。
「大空翼の引退試合を日本で行おう」
最初に発言したのは翼と最も古くから親交があるという石崎了であったといわれている。
引退後はタレント活動を続けていた彼だけあって、その発言はメディアを通じて瞬く間に広まることになった。
熱しやすい日本人の国民性か、すぐさま実行委員会が結成され、開催へとつながった。
世界中の往年の名選手たちも趣旨に賛同し、この偉大なプレイヤーの存在感を日本国民は再評価することになった。
シュナイダー、ピエール、ディアス、ヘルナンデスら、サッカー史上に残る名選手たちが来日を決定した。
仲違いをした若林も来日を約束した(もっとも、来日中、翼とはまともに会話さえしていなかったと言われているが)。

その4へと続く

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