二次創作・キャプテン翼黄金世代列伝「ガラスの貴公子三杉淳」その1

キャプテン翼小説

<ご注意>
この話は私が勝手に考えたキャプテン翼世界のオリジナルストーリーが元になっています。
実際のキャプテン翼にこのようなエピソードはありませんのでお間違えのないようお願いします。
面白いと思われた方は、過去に私が書いたオリジナルストーリーが当ブログ内の「キャプテン翼小説」カテゴリーにあるので読んでみてください。
シェアなどししていただけるとうれしいです。

三杉淳は日本サッカー界の将来を担う逸材として、小学生の頃より期待されていた選手であった。
大人をも驚愕させる華麗なるテクニックと、老成されたかのような冷静な戦術眼、キャプテンとしての統率力、どれをとっても非の打ち所がない選手であった。
ただひとつ、先天的な心臓病を持つことを除いては……

生まれついての心臓病を克服するために彼はサッカーを始めた。
「当初はリハビリの一環としてしか思っていなかった」と、後に彼は語っている。
しかし、皮肉にも彼は誰よりもサッカーの才能に恵まれていたのである。
そして、誰よりもサッカーが好きになってしまった。
「最初に憧れたのはヨハン=クライフだった」
ある年のクリスマスプレゼントに、彼はワールドカップの映像集を求めたという。
そこに映っていたヨハン=クライフの変幻自在のプレイは彼を魅了した。
それまで特に意識もせず10番を付けてプレイしていた彼は、次の日から監督にクライフの背番号である14番を強く求めた。
クライフのテクニックはいうまでもなく、全力で駆け回りポジションを目まぐるしく変えるオランダのトータルフットボールが、心臓病で満足に走れない彼に羨望を与えたのは想像に難くない。
あのように自由に走り回れたら……これが三杉淳の原点であったかもしれない。

しかしながら、テクニックは誰もが認めるものの、ハンデを抱えた三杉をサッカー部の監督は使おうとせず(怖くて使えなかったというのが本音だろう)、彼は誰よりも華麗なテクニックを持ちながらも、小学五年までに目立った活躍を見せていない。
若林源三率いる修哲小が全試合無失点で全国優勝したのを、三杉はどういう思いで見ていたであろうか(余談ではあるが、後に黄金世代と呼ばれるこの年代の選手たちは、どういうわけか若林以外、六年になるまでにたいした活躍を見せていない。大空翼に関してはサッカー部の存在しない小学校に在籍していたことが証明されているが、他の選手たちについては、レギュラー入りをした選手さえ少ないことから、おそらく強い個性が邪魔をしたのではないかという説が有力である。凡人である上級生たちが、天才の下級生たちに嫉妬するのは当然であろう)。
最高学年になり、身体能力が向上すると共に、三杉は30分限定でのプレイを認められた。
小学生離れした華麗なテクニックはすぐに評判となり、当時の東城学園サッカー部監督は「どうして彼をスタメンで使わないのか」というスポーツ記者たちの質問に辟易したという。
「ダイヤモンドの原石をこんなところで壊すわけにはいかない」
三杉と関わった当時のサッカー部監督たちは決まってこう答えたという。
しかし、この言葉の裏に三杉の身体的ハンデの気配を感じ取っていた記者は皆無だった。

三杉は小学校生活最後の学年で、忘れられない対決をする。
のちに何度も比較されることになる大空翼との対戦である。
当時、三杉は選抜チームの武蔵FCに所属し、全国少年サッカー大会に出場していた。
1000人から選抜されたという武蔵FCにおいてさえ、彼の実力は卓越しており、すぐにキャプテンとして選出された。
翼と三杉の対決は準決勝の場においてであった。
それまで三杉は温存され、わずかしか華麗なるテクニックを披露することはなかったが、天才は天才を知るのか、この試合で三杉は初めてフルタイム出場することを決意したという。
この戦いにおいて、前半、三杉淳は大空翼を圧倒した。
華麗なるテクニックの前に、あの大空翼が意気消沈したという。
三杉淳は大空翼に初めて挫折を感じさせた選手と言われている(ただし、このエピソードについては翼を擁護する評論家もいる。翼はこのとき当時武蔵FCのマネージャーを務め、後に三杉夫人となった青葉弥生から、三杉の心臓病について事前に知らされ、精神的に動揺していたという説があり、それさえなければ、相手が強ければ強いほど燃える翼だけに、三杉と互角の勝負をしたという主張である。青葉弥生は翼と一時期同級生であったことから、この説は翼びいきの評論家の間で根強く、中には三杉による謀略という説を唱える者もいる。残念ながら、真実は双方が語らないため闇の中である)。
しかし、後半になり、翼が若林の激を受け立ち直ったことから、徐々に武蔵FCは追い込まれ、さらに三杉の心臓が悲鳴を上げたことから、結果、試合には敗れた。

この試合で三杉は心臓病であることを皆に告白した。
アイドル並のルックスからファンクラブまで結成された彼が、泥だらけになりながらもプレイしている姿にファンならずとも涙したという。
「ガラスの貴公子」……誰が呼んだか、才能や美貌に恵まれながらもハンデを負った彼に、この日からこのような異名が付けられた。
この試合の勝者は南葛であったが、前述した内容および三杉の身体的ハンデからも、翼と三杉という個人対決においてどちらが勝者であったかは評価が分かれている。
なお、これ以降、ふたりの対決は後のワールドカップまで待たねばならない。

中学生になり、身体的には成長していく三杉であったが、心臓の病は回復へと向かわず、キャリアの大半を棒に振ることになった。
三年のとき、全国大会出場をかけた都大会決勝にて日向小次郎率いる東邦学園を苦しめることでわずかに存在感を示したが、彼にとっては物足りない結果であったに違いない。
しかし、天性のスターともいえる彼をサッカーの神は見捨てていなかった。
中学生活の最後で彼は強烈な輝きを放つ。
パリで開かれたジュニアユース世界大会の場で、彼は世界のサッカー関係者にその実力を見せつけた。
芸術の国で貴公子が鮮やかに輝いたのは話が出来すぎというものか。
ジュニアユース大会準々決勝の対アルゼンチン戦、天才ファン=ディアスが日本を苦しめたこの一戦で、彼は後半終了間際に登場。
巧みなドリブルで数人をかわし、最後は大空翼に勝るとも劣らない華麗なオーバーヘッドキックで決勝点を挙げたのである。
「まだ日本にはこんな奴がいたのか!」と当時スタンドで観戦していた他国のスタープレイヤーたちは驚愕したという。
彼は準決勝のフランス戦でもDFとして出場。
日本のゴールを懸命に守った。
決勝の場こそ心臓の具合により出場がかなわなかったが、日本の優勝に貢献したのは間違いない。
この大会において、本来、彼の役割はコーチとしてのものだった。
選手として登録はされていたものの、日本サッカー協会は三杉の指導者としての資質を見抜き、コーチとして役割を与えたのである。
慧眼であったといえよう。
実際、松山光をDFにコンバートするよう進言したのは彼であり、後に「アジア最高のリベロ」と呼ばれた松山の活躍を考えると、早くからその適性を見抜いていた三杉の才能には恐れ入るばかりである。
(余談ではあるが、後に日本代表のCBを長く務めた井沢守をDFにコンバートしたのも彼と言われている。ただし、こちらに関しては裏づけとなる証言はない。三杉を嫌う評論家は「実績をあげるために、誰でも彼でもコンバートしようとしていた。たまたま松山はセンスがよかったので成功しただけ」と辛辣に表現している。しかし、後にオリンピック代表戦に向けて日本代表が次々とコンバートされる下地を作ったのは三杉ではないかという見方もある。)
大会後には、各国のサッカー関係者から三杉への接触があったとされている。
が、心臓病という事情を聞き及んで、どのチームも契約を躊躇したというのが事実のようだ。
ただ、このときの悔しさから、彼はそれまでぼんやりと考えていた医者を志すという目的を具体化させたという。
「この頃、憧れたのはソクラテスだった」と、サッカー選手でありながら医者の資格を所持していた往年のブラジル代表選手の名を挙げている。

不思議と三杉淳という人物は、節目、節目で輝きを放つ人物であるようだ。
高校時代においても、前半、彼は雌伏のときを過ごしたが、三年時にスポットを浴びる。
しかも、三年を迎えたときに彼を待っていたのは、人生最大の喜びといってもよかった。
彼はついに心臓病を克服したのである。
初めは呆然とし、喜びに気づいたときには、同行していた青葉弥生の手を握りしめ赤くなったというほほえましいエピソードが伝わっている。
しかしながら、成長期において十分なトレーニングを積めなかったブランクは、さすがに短期間で埋められるものではなかった。
特にスタミナ面での不安は大きかった。

その2へと続く

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