二次創作・キャプテン翼黄金世代列伝「猛虎日向小次郎」その1

キャプテン翼小説
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<ご注意>
この話は私が勝手に考えたキャプテン翼世界のオリジナルストーリーが元になっています。
実際のキャプテン翼にこのようなエピソードはありませんのでお間違えのないようお願いします。
面白いと思われた方は、過去に私が書いたオリジナルストーリーが当ブログ内の「キャプテン翼小説」カテゴリーにあるので読んでみてください。
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大空翼最大のライバルといえば、誰を思い浮かべるだろうか。
ディアス、シュナイダー、ピエール、三杉、ナトゥレーザ・・・・・・岬太郎や若林源三を挙げる者もいるかもしれない。
しかし、往年のサッカーファンが真っ先に思い浮かべるのは、日向小次郎の名ではないだろうか。
「日本の猛虎」、「ユベントスの猛虎」と呼ばれ、日本人初のセリエA得点王に輝いた日向小次郎は、無敵を誇った小・中学生時代の翼に対して、唯一黒星をつけた選手であり、唯一引き分けた選手でもある。
日向小次郎は19××年8月17日埼玉県明和町(現明和市)に生まれた。
後に弟ふたりと妹が生まれ、子沢山の家庭で育った。
小次郎少年はやんちゃで喧嘩ばかりしていたが、厳しくも優しい両親に育てられ、幸せな幼年時代をすごしていたようだ。
だが、突然の悲劇が家族を襲う。トラック運転手の父が事故で亡くなったのだ。
一家四人は路頭に迷うことになった。
パート勤めの母親の稼ぎではとても四人の子供を食べさすことができず、長男であった小次郎少年は、小学生の身ながら新聞配達などで家計を助けた。
「まだ小さかった弟や妹を背負いながら新聞配達する姿をよく見かけた」と、当時の日向を知る明和町の住民は語る。
そんな彼にとって、たまったストレスを解放してくれる存在がサッカーであった。
「ムシャクシャしたときでも、ボールを思いっきり蹴飛ばせばすっきりした」と日向は邂逅する。
背負い込んでいるものが違う日向は、同年代の少年たちよりもずっと大人びた存在であったのだろう。
いわゆるガキ大将になるまでに時間はかからなかった。
こんな逸話がある。
四年生になり、小学校のスポーツ少年団に入団したとき、ボロボロのボールを使っている日向を見て、上級生のひとりが笑ったという。
その上級生はミニゲームの際、日向の強烈なシュートを顔面に受けることになった。
以後、日向に対して一切からかいの言葉を口にしなくなったという。
実際、上級生の誰も日向に対して実力的にかなわず、一目置かれる存在となった。
新聞配達で鍛えられた肉体、生まれ持った運動神経は当然だが、何よりも通常の小学生には背負いきれないものを背負っている精神面で、日向にかなうものなどいなかった。
さらに輪をかけたのが、若島津健の存在である。
空手道場の息子であり、自らも空手の有段者である若島津健は、地域では有名な存在であった。
この若島津が入団時に日向と意気投合し、互いの実力を認め合い、以後はふたりでよく行動するようになったという。
ふたりに逆らう命知らずは地域にはひとりもいなかった。
後に若島津は子犬を助けようとして交通事故に会うが、入院中の若島津を日向は新聞配達の合間などに見舞いへ訪れていたらしく、若島津は日向の器の大きさに心服したという。
大勢の弟子を抱える若堂流道場の息子である若島津は、決して貧しい生活をしていたわけではなかったが、当時、ボロボロの服を好んで着ていた。
それは日向に憧れていたからだという説がある。
また、元々FW志望だったという若島津は、日向の実力を見て、即座に別ポジションへの移行を考えたという逸話が伝わっている。
後にオランダアヤックス、さらには日本代表にて、FWとGKを務めた二刀流選手として世界的な名声を得る若島津であるが、日向との出会いが二刀流の契機となっているのだからまことに奇異なものである(しかし、この件について、元日本代表GKで「黄金世代を一番後ろから見ていた男」の著書で知られる森崎有三は、「自己主張が強く、荒っぽいふたりの出会いがそんなきれいごとで片付いたはずがない」と主張している。実際、ふたりが拳や脚で語り合った可能性は十分あるかと思われるが、少年期の思い出話として扱うべき類のものであろう)。
日向が実力的に優れていたのは事実であるが、当時の明和小監督は秩序を重んじたのか、彼をレギュラーとして使うことは少なかったようだ。
また、明和小スポーツ少年団自体は総合的に優れていたチームではなかったようで、小学四,五年時の日向は目に付くような実績を残していない。

ただし、この頃日向は自分の人生を大きく変える人物と遭遇している。
「ちょうどムシャクシャすることがあって、空き地の壁にボールを蹴っていたんだ。そしたら、怪しい小柄なおっさんが割り込んできて、シュートをそのまま撃ち返してきたんだ。驚いたよ」
日向は“大恩人”吉良耕三との初対面をこのように語っている。
後に日向は相手のシュートを撃ち返す技を得意としたが、そのきっかけが垣間見られて興味深い。
吉良は後に日本オリンピック代表監督を務め、金メダルをもたらした人物であるが、経歴には謎が多い。
日本サッカー黎明期の名選手であり、ブラジルのクラブチームからオファーを受けた際に「ブラジルの酒は口に合わん」と断ったという逸話が伝えられているが、この逸話さえ本人が吹聴したという説があり、実力やプレイスタイル、ポジションまでが謎に包まれている(一説によれば、弟子たちのポジションが多彩であることから、すべてをこなしたユーティリティプレイヤーと言われている)。
現役を退いた後、各地でサッカー指導者をしていたようだが、当時は酒で失敗したため、浪人生活を送っていたようだ。
吉良は日向から素質を感じたらしく、それからは独自の指導法で日向を鍛えた。
後に若島津健も加わったようだ。
日向と吉良が出会ってからしばらくして、明和FCの結成が発表された。
当時、町ごとの選抜チーム結成が流行していた(南葛SCもその中のひとつである)。
明和町もそれに習ったということであろう。
この明和FCの初代監督として選出されたのが吉良耕三である。
当時、明和町の教育委員会関係者に吉良の知己がいたことが就任理由と言われているが、地域の名士であった若島津の父が息子の勧めで推薦したという説もある。
一部ではアルコール中毒者である吉良の就任に対して批判的な意見もあったそうだが、大人たちが眉をひそめるのとは反対に、吉良の厳しいながらもユニークな指導法は少年たちに受け入れられた。
それぞれの個性と長所を見抜いて、適切な役割を与えることで子供のやる気を伸ばすやり方は、現在、教育の題材としても取り上げられている。
「明和特攻スライディング部隊」などは、その最たる例だろう(名称に難色を示すPTAは多かったようだが)。

その2へと続く

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