<ご注意>
この話は私が勝手に考えたキャプテン翼世界のオリジナルストーリーが元になっています。
実際のキャプテン翼にこのようなエピソードはありませんのでお間違えのないようお願いします。
面白いと思われた方は、過去に私が書いたオリジナルストーリーが当ブログ内の「キャプテン翼小説」カテゴリーにあるので読んでみてください。
イタリア人として生まれた以上、サッカー選手にあこがれるのは当然のことだった。
日常生活の中にサッカーがあり、物心がつけば、誰もがボールを蹴り始める。
複数人が集まり、適度な広場があれば、すぐにサッカーが始まるのがイタリアという国である。
ジノ=ヘルナンデスもそんな環境の中で育った。
生まれは北イタリアのミラノであり、幼いころからインテルのユニフォームにあこがれた。
幼い頃は、ストライカーになりたかったというジノであったが、イタリア代表GKディノ=ゾフのプレイや、地元イタリアで開催されたワールドカップの際に無失点時間記録を作ったワルテル=ゼンガのプレイを見て、GKへの転向を決めたという。
抜群の反射神経と恵まれた長身はGKとして優れた特性を見せた。
細身ではあったが、握力も強く、キャッチも上手だった。
何より冷静かつ温厚な性格が、キーパーに必要とされる優れた判断力をもたらしていた。
インテルの下部チームで優れた成績を残したジノはイタリアジュニアユースチームにも順調に選ばれた。
正GKの座を確保し、ヨーロッパ中で活躍した。
特に1年間のノーゴール記録は伝説となっている。
ジノは代表チームで15歳の1年間まったくゴールを奪われなかったのだ。
ドイツチームが遠征してきた際、後の世界的ストライカー、カール=ハインツ=シュナイダーにゴールを奪われたものの、それ以降、国際ジュニアユース大会で大空翼にゴールを奪われるまで、1年間、誰にもゴールを許さなかった。
結果、付けられた異名が「パーフェクトキーパー」であった。
ヨーロッパナンバー1キーパーの座を確保したジノにとって、パリで開催された国際ジュニアユース大会は、世界一へ挑戦するための大会だった。
しかし、世界の壁は厚かった。
よりによって、初戦の相手が、あの大空翼率いる日本黄金世代だったのが不幸の始まりだった。
この試合、ジノは好セーブを連発し、日本を震え上がらせることに成功はする。
「自慢のイーグルショットをまさかワンハンドキャッチする奴がいるとは思わなかった」とは松山光の弁であり、「世界にはまだまだすごいキーパーがいると思った」とは後のチームメイト、日向小次郎の弁である。
前半を折り返し0対0。
当時の日本は欧州勢のはるか格下に見られていたため、日本チームが強豪イタリア相手に0点に抑えたことが拍手されたほどである。
試合が動いたのは後半開始早々のことであった。
前がかりになった日本攻撃陣を出し抜き、見事なカウンターでイタリアは1点を先制した。
これまでの試合なら、これで決まりだった。
ジノがゴールを割られることなどありえず、このまま守備的に残り時間をこなせば、イタリアはいつもどおり勝利することができたのである。
「あのとき間違いなくイタリアの勝利を確信した」とは、当時を振り返って語るカール=ハインツ=シュナイダーのコメントである。
追い詰められた日本チームは岬太郎を投入してきた。
当時、フランスに在住していた岬は代表合宿に途中から参加したため、この試合にスタメン出場をしていなかったのである。
当時、無名だった岬をイタリアはまったく警戒していなかった。
岬太郎に限らず、イタリアの選手たちは日本代表選手など誰も警戒にしていなかっただろう。
岬の投入で、試合は日本のリズムに変わった。
当時のイタリアはジノのワンマンチームといってよかった。
タルデリ、コンティといった優秀なフィールド選手はいたものの、後の経歴を見ると、大空翼や日向小次郎たちとは比べ物にはならなかった。
プロ入り後、ジノとともに活躍するスイーパーのサルバトーレ=ジェンティーレもこの大会にはケガで参加していなかった。
守備的になった時点である程度は覚悟していたとはいえ、黄金コンビを中心に中盤を支配され、ジノのスーパーセーブがなければ、何点取られていたかはわからないほどであった。
緊張の糸がついに切れた。
イタリア守備陣が日本ゴールデンコンビの前にズタズタに引き裂かれ、ついにジノさえも二人の前にかわされてしまったのだ。
キーパーにはまったく責任のない失点ではあったが、1年以上無失点を守ってきたジノにとっては残念なことだった。
このショックからか、そのあと、終了間際に日向小次郎のネオタイガーショットが炸裂したことによって、ジノはもう1点を失い、敗れてしまう。
2点取られたのは数年ぶりのことだった。
しかも、ネオタイガーショットの前に腕を負傷してしまい、そのあとの試合には出ることができなかった。
ジノ抜きのイタリアは次戦、天才ファン=ディアス率いるアルゼンチンに0-5で敗れる。
結果、予選リーグでの敗退だった。
いかにイタリアにとって、ジノの存在が大きかったかがわかる好例であろう。
ちなみに、日本戦に関しては、興味深いエピソードがある。
この試合の前にイタリアは日本との練習試合を急遽キャンセルしたという事情があった。
日本チームが大空翼と岬太郎抜きで戦っていたこともあり(当時、ケガで強化合宿に参加していなかった翼を試合に出すのは特例を認めることになると、日向や松山が認めなかった)、強化試合で連戦連敗を重ねており、戦う価値なしと判断したのだ。
これに激昂したのが大空翼である。
「自分が試合に出られないから鬱憤がたまっていた」
(某黄金世代選手:談)という見方もあるが、単独でドリブルをしかけ、イタリアディフェンス陣をかわした上に、ジノに対してドライブシュートを放ったという。
出し抜けではあったとはいえ、その強烈なシュートにジノは反応できなかった。
ショックだったという。
イタリア代表選手たちもあんな見事にシュートを決められたジノを初めて見たという。
だが、ジノはこの屈辱をバネに変えた。
わずか数日の特訓で対策を練り、試合では見事一度見ただけのドライブシュートを止めて見せたのだ。
大空翼のドライブシュートを止めたのは若島津健に続いて二人目だったが、若島津が何発も決められた上で止めたのに比べ、ジノは一度見ただけで止めたのだから、その非凡さが伺い知れよう。
しかし、このときの出来事から、一部評論家は翼があらかじめドライブシュートを見せていなければ、対イタリア戦はもっと大差になっていたはずだと断言する。
歴史にIFは禁物だが、興味深い説ではある。
ただし、日本との対決で大空翼のドライブシュートをすべてジノが防いだのは紛れもない事実であり、もっと評価されてもいいだろう。
決勝戦にて、デューター=ミューラーが大空翼のドライブシュートを簡単に破ったことなどから、ジノはヨーロッパナンバー1キーパーの座を奪われそうになるが、ミューラーもこの大会では2試合出場しただけであり、日本に3点を奪われているので、引き分けと言えよう。
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