二次創作・キャプテン翼黄金世代列伝「ファンキーガッツマン石崎了」その1

キャプテン翼小説
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<ご注意>
この話は私が勝手に考えたキャプテン翼世界のオリジナルストーリーが元になっています。
実際のキャプテン翼にこのようなエピソードはありませんのでお間違えのないようお願いします。
面白いと思われた方は、過去に私が書いたオリジナルストーリーが当ブログ内の「キャプテン翼小説」カテゴリーにあるので読んでみてください。
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黄金世代で一番輝いていた選手といえば、大空翼、三杉淳、若林源三、日向小次郎あたりの名をあげるものが多いだろうが、「一番成長した選手は誰か?」と聞かれたら誰の名を答えるだろうか?
答えがあるものではないが、私は石崎了の名をあげたい。
石崎了に関しては、引退後のタレント・実業家としての活躍が目立っているので、純粋なサッカーファンからは「黄金世代の裏事情を暴露することで金を稼いでいる」「馬鹿なことばかりやって黄金世代の名を貶めている」などという非難の声もあるが、一方でどん底のサッカーチームキャプテンだった石崎が、後に日の丸を背負い、代表チームの主力として活躍した努力はもっと評価されてもよいはずだ。

石崎了は19××年4月1日、静岡県南葛市で生まれた。
実家は「石乃湯」という銭湯である。
「石崎は中学になるまで番台に座っていた」という当時を知る同級生の証言がある。
小さな頃からヤンチャで正義感が強く、体の大きい上級生相手にもおかしいと思うことはくってかかる少年であったようだ。もっとも、体が小さいので喧嘩は弱かったようだが(4月1日生まれの石崎は学年で最後に生まれた生徒になるため、成長の問題が差に出やすい小学生時代は体格的な不利があったと思われる。ただし、現在も石崎は小柄だが)。
しかし、責任感は強く、頼られるとほっておけない性格であったらしい。
サッカー部のキャプテンに選ばれたのも自然のことであったかもしれない。
主にDFを務めていた石崎であるが、翼が入学してくるまでの南葛小時代はFWからDFまでこなしていたという。
これは複数の関係者が認めている。
時折、果敢なオーバーラップを決めることが得意であった石崎であるが、素養はこの頃からあったのだろう(もっとも、当時の南葛小は戦術うんぬんを語るほどのチームではなかったようだが)。
一方で同じ区域にある若林源三率いる私立修哲小は全国優勝を決めるほどの強豪であり、親善試合で頻繁に対決していたが、大差負けするのが常であったようだ。
「一時期、腐りかけていた」と石崎自身も語っているように、かなわない相手に引け目を感じかけていたのも事実のようだ。
これは仕方のないことだろう。
資金が潤沢で優秀な選手を県外からも集める私立の修哲小に比べて、公立の南葛小では限界があった。
その状況を救ったのが大空翼である。
「翼ひとりが10人に匹敵した」と後に言われているほどの、サッカー史上最高級の選手である。
まだ戦術も固まっていない小学生レベルのサッカーでは、ひとりで戦局を変えることなど赤子の手をひねるようなものであったろう。
例えるならば、子供同士の喧嘩に核ミサイルを持ち込んだようなものだった。
全国大会を全試合無失点で凌いだ若林源三と修哲小守備陣が対抗戦と呼ばれる親善試合で、大空翼と初対決し2点を失った。
かつて30点を取られた南葛守備陣が2失点で凌いだ。
全国優勝した修哲と南葛が引き分けたのである。
腐りかけていた南葛小サッカー部は、一気に鮮度を蘇らせた。
また、この試合では途中から南葛小に転校してきた岬太郎が乱入している。
「黄金コンビ」が誕生した歴史的な試合であり、後に「東洋の守護神」「SGGK(スーパーグレートゴールキーパー)」と呼ばれた若林源三と大空翼が始めて対決した試合でもあった。
「俺たちは歴史的な瞬間に立ち会ったんだ」とは、来生哲平の言葉である。

石崎と翼の出会いは伝説に彩られている。
練習場の使用権をめぐって石崎と若林(正確に言えば、石崎が連れてきた他クラブの連中と若林)が対決した模様を翼が見ていたとされ、野球部のエースが投げたストレートさえ簡単に止めた若林の姿を見て、翼が対決を熱望したという。
石崎の証言によれば、小高い丘から1キロほど先にある若林邸の庭に「果たし状」と書かれたボールを寸分たがわず翼が蹴りこんだという。
その姿を見て、石崎は若林に勝てると確信したという。
(余談だが、これが事実なのか、あるテレビ番組で検証されたことがある。石崎の証言する丘の上からボールを蹴ってみようという実験であった。翼の代役は「ヤマザル&大丸」のグループ名で立花兄弟とタレント活動を共にしている元花輪中サッカー部員の大丸が務めた。キック力を買われてサッカー部にスカウトされたという逸話を持つ大丸であったが、結果は失敗であった。1キロどころか、150メートルほど飛べば上出来であったという。ただし、現場付近は普段風が強く、おまけに風向きが変わりやすい地域だという証言があり、実験中も時折風にボールが乗り通常より伸びることがあったということだ。つまり、翼伝説は曖昧な形で残されたわけだが、そもそも大丸ごときが蹴ったことが失敗だという辛口の批評もある。また、この実験により、現地で真似をする子供が増えたため、周囲の住民からテレビ局に強い抗議があったというおまけもついた。)
相手が強ければ強いほど燃え、一方で相手を完膚なきまで叩きのめすという翼伝説最初の犠牲者は若林源三であったと言われている。
叩きのめされたとまではいかなくとも、若林のプライドはズタズタになったことだろう。
「あの若林さんが『頼む1点でいいから取ってくれ』って言ったんだ。『頼む』なんて言ったのを初めて聞いたよ」とは修哲小出身の某有名選手の言だが、同級生にさえ「さん」付けで呼ばせる若林が頭を下げる姿は衝撃的であったに違いない。

その2へと続く

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