二次創作・キャプテン翼黄金世代列伝「第二の男、井沢守と修哲トリオ」その1

キャプテン翼小説
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<ご注意>
この話は私が勝手に考えたキャプテン翼世界のオリジナルストーリーが元になっています。
実際のキャプテン翼にこのようなエピソードはありませんのでお間違えのないようお願いします。
面白いと思われた方は、過去に私が書いたオリジナルストーリーが当ブログ内の「キャプテン翼小説」カテゴリーにあるので読んでみてください。
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世界中のサッカーファンを騒がせた黄金世代であるが、不思議と彼らのほとんどが小学六年生になるまで名を知られていない。
大空翼はサッカー部のない小学校に在籍していたことが証明されており、岬太郎は引っ越し続き、三杉淳は心臓病という事情もあるが、日向や松山でさえも一部のサッカー関係者にしか知られていなかった。
むしろ双子で目立った立花兄弟の方が注目されていたほどだ。
まだ成長段階であったとか、日本の年長者を敬う序列制度や、彼らの強すぎる個性が邪魔をしたという見方がされているが定説はない。
ただし、例外もある。
若林源三と井沢、来生、滝、高杉といった修哲小の面々である。
彼らが全国制覇を成し遂げたのは小学五年生のときであり、彼らは黄金世代の誰よりも早く全国制覇を成し遂げているのである。
しかも、このとき彼らは選抜チームではなく、修哲小のスポーツ少年団チーム単独(もっとも、修哲小自体は資産家である若林家からの潤沢な援助で立派なサッカー場まで所持している私立名門校ではあったが)で出場し、さらには全試合で1点も失うこともなく優勝しているのである。
黄金世代のほとんどが出場していないこの大会のレベルを疑問視する向きもあるが、それでも偉業であることには間違いない。
若林源三は別格として、井沢守や滝一、来生哲平や高杉真吾は金の卵として当時から注目された選手である。
特に井沢守は非凡なゲームメイクのセンスと、ヘディングを得意とする空中戦での強さ、さらにはミドルシュートやダイビングヘッドで果敢にゴールを狙うなど、大会屈指のMFとしてサッカー関係者から注目を浴びていた。
中学時代に元々FWだった大空翼が「俺の目標はゲームが作れて、なおかつ点も取れるMFになることだ」という発言をし、実際MFに転向しているが、考えようによっては、井沢は翼よりも一足早くそれを実現していたのである。
井沢は六年時にその大空翼と対戦している。
井沢らが所属した修哲小と、翼の所属した南葛小は同じ地域にあり、各クラブ同士が対決する対抗戦という大会が毎年行われていた。
両校同点で迎えたその年の大会は、最後のサッカー部の対決で勝敗が決まるドラマチックな展開であったという。
当時、南葛小サッカー部は弱小チームに過ぎなかったが、大空翼が転校してきたことで、一躍修哲と互角の戦いができるチームとなっていた。
チーム全体がロベルト本郷から指導を受けていた点も見逃せない。
しかも、このときの試合は翼と岬が初めて出会ったという伝説の試合でもあり、そのふたりと若林が初めて対決した試合でもある。
もちろん、井沢、来生、滝、高杉らと翼、岬が対決した試合でもある。
はじめは弱小の南葛相手と油断していた井沢であるが、大空翼を相手にするうちに徐々に本気を出さざるを得なかったという。
しかし、本気を出しても、翼と岬相手に翻弄され、結果的に大空翼伝説の幕開けに協力したことになった。
試合は2-2の引き分けであったが、全国大会で1点も失わなかった修哲小が弱小の南葛小相手に2点を取られたというのは、観衆だけでなく、両チームの選手にとっても信じられない結果であった。
これまで自分よりすごい相手は若林しかいないと思っていた井沢だけに、大きな衝撃であったと後に語っている。
来生や滝にしても同様であったことだろう。

月日が流れ、全国大会を前に南葛市では、各小学校から優秀な選手を集めて選抜チームが作られた。
本来なら井沢は実績から考えて、チームの司令塔となるところであった。
しかし、“フィールドのアーチスト“岬太郎の存在が、井沢をまたも主役から脇役へと追いやってしまう。
南葛は黄金世代の強豪たちを倒し、全国優勝を成し遂げるが、その原動力となったのは翼と岬というのが正直なところであった(若林は故障のため決勝戦しか出場していない)。
井沢をはじめ、来生、滝、高杉らは五年時ほどの活躍をすることができなかった。
もはや、世間の目は翼や日向、松山らに向いていたのである(若林、岬は海外へ、三杉は心臓病の治療に専念したため、一時サッカー関係者のリストから消えた)。
中学に進学し、岬太郎がフランスへ渡ったことで、今度こそ井沢の元に司令塔の座が戻るかと思われた。
しかし、こともあろうに”天才”大空翼が自らMFに転向してきたため、井沢はまたしても脇役となってしまう。
このとき井沢らには修哲中へ行くという選択肢があったため、井沢は南葛中へ進学したことを後悔したという説があるが、井沢はその説を否定している。
「大空翼を敵に回して全国大会へ行けるとは思わなかった」と後に井沢は淡々と語っている。
慧眼であったと言えよう。
井沢だけでなく、来生、滝、高杉らも南葛中に進学している。
皆、同じような思いであったのかもしれない。
また、結果的にドイツへ行くことになったものの、一時期、若林も南葛中進学を選択していたことから、同級生である若林を「さん」付けで呼んでいたほどの結束力を誇る修哲小の面々が、南葛中進学を選んだのは自然なことだったのかもしれない。
余談ではあるが、このとき後の日本代表選手である西ヶ丘小出身の浦辺と、山吹小出身の岸田から大友中に井沢は誘われたという説も根強い。
井沢は修哲中進学説とともに否定しているが、実現していたら、新田へとパスを送る人材が不足して南葛に敗れた大友中だけに歴史が変わっていた可能性もあり、興味深い。

中学時代の井沢は第二の司令塔という役割であった。
翼が激しいマークに合い苦戦したとき、井沢がゲームを組み立てることで南葛中は連戦連勝を重ねた。
そういう意味では、井沢は欠かせないプレイヤーであった。
タレントの石崎了は、この頃の井沢のことを、「『ここは俺に任せて先に行け』と、敵を引き受けて主人公を先に行かせる脇役。必要不可欠だけど目立たない存在」と評している。
彼にしては言い得て妙な表現である。
翼のスーパープレイにはついていけなかったので、井沢は岬太郎になることはできなかったが、南葛で翼がもっとも”技術的に”信頼したプレイヤーは井沢だったのではないかというのが定説になっている(では、技術的以外では誰かという疑問が湧くが、一応石崎であるというのが定説となっている。しかし、翼はわずか1年しか一緒にプレイしなかった岬太郎を親友とみなしているのも、また事実である)。
翼ひとりが群を抜いてうまいため、南葛は翼のワンマンチームと見られがちだが、井沢、来生、滝らは全国上位レベルの存在であったとも言われている。
おそらく、生まれた年があと少し違えば、彼らは日本代表の中核選手になっていただろう。
気の毒と見るか、黄金世代に生まれたからこそ名を残せたと考えるかは評価の分かれるところだ。
彼ら自身も同じ思いではなかろうか。

その2へと続く

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