二次創作・キャプテン翼黄金世代列伝「フィールドのアーティスト岬太郎」その1

キャプテン翼小説

<ご注意>
この話は私が勝手に考えたキャプテン翼世界のオリジナルストーリーが元になっています。
実際のキャプテン翼にこのようなエピソードはありませんのでお間違えのないようお願いします。
面白いと思われた方は、過去に私が書いたオリジナルストーリーが当ブログ内の「キャプテン翼小説」カテゴリーにあるので読んでみてください。
シェアなどしていただけるとうれしいです。

岬太郎と聞くと、大空翼との黄金コンビ、三杉淳との新黄金コンビのどちらを思い浮かべるだろうか?
人によっては、パリSG(サンジェルマン)におけるJ・J=オチャドとのコンビを思い浮かべるかもしれない。
岬太郎は日本サッカーの黄金期を支えた名選手であり、世界でも指折りのサッカー選手である。誠実な人柄からファンも多い。
しかし、サッカーの歴史に名を残す選手でありながら、単独での印象が薄いのではないだろうか?
一体、岬太郎とはどのような選手だったのか?
以降、岬の事跡を追いながら、彼を分析していきたいと思う。

岬太郎は19××年5月5日に生まれた。出生地については諸説あり定かではない。
父、一郎は放浪の画家であり、岬が幼い頃に妻と離婚していた。
岬は幼少時より父に付き従って全国を転々とする生活を繰り返してきた。
短期間で引っ越していく生活を続ける彼にとって、最も仲がいい友達はサッカーボールであった。
口にはしないが、貧しい生活でもあったようで、テレビゲームなどを買ってもらえる環境ではなかったようだ。
「サッカーボールさえあれば寂しさを紛らわせた」と彼は後に語っている。
かといって、岬はひとり陰にこもる暗い少年であったわけではない。
行く先々で次々とサッカーを通じて友人を作っていった。
朗らかで誠実な人柄であったため、皆から(抽象的表現ではなく本当に)好かれていたようだ(もっとも、わずかな期間しか滞在しないために、好印象しか残らないというひねくれた見方もあるが)。
あまり知られていないが、岬は小学生時代、日向小次郎(当時明和)および松山光(当時ふらの)と、一時期、同じチームでプレイしている。
歴史にIFは禁物だが、両者とも小学校六年時の全国大会で準優勝、ベスト4に輝いていることから、もし岬がそのまま所属していれば優勝していたのではないかと考えるのは想像が逞しすぎるだろうか(余談ではあるが、日向小次郎とのコンビで知られる沢田タケシは、日向を「小次郎」と呼ぶことができるのは、親族と吉良監督を除けば岬くらいのものだと証言している。後輩の沢田は仕方がないとしても、同級生である若島津でさえ「キャプテン」と呼ぶのが精一杯であり、大空翼でさえも「日向くん」と呼んでいた。若林、松山、三杉らは「日向」と呼び捨てにしていたが、それでも「小次郎」には及ばない。日向が唯一心を開いていたのは岬だけではないかと、沢田はさらに付加している・・・・・・同様のことは若林源三にも言える。彼は同級生である来生、滝からも「若林さん」と呼ばれていた。ただ、若林は岬と違い威圧感を与える人物ではあるが)。

岬は小学校六年時に、大空翼や若林源三と共に南葛SCを全国優勝へと導く。
ふたりの出会いも運命的で、若林源三が在学していた修哲小と、翼の在学していた南葛小との対抗試合に、ちょうど南葛小へ転校してきた岬が後半から飛び入り出場したのが最初である。
初対面でありながら息の合ったプレイをするので驚いたと、当時の目撃者は口を揃えて言う。
このとき、現タレントの石崎了が負傷退場したことから岬の出場がかなったため、「黄金コンビの結成は俺のおかげ」と石崎は自分の負傷についておどけている。
大空翼とのコンビプレイはすばらしく、「黄金コンビ」として話題を呼んだ。
地区予選では準決勝で若干苦戦したものの、静岡大会をほぼ順調に勝ち抜いた。
本大会では予選リーグで日向小次郎率いる明和FCに敗れてはいるものの、花輪、武蔵などの強豪を破り、決勝へ進出している。
決勝では再び明和と対決し、再延長戦までもつれたものの、4対2でこれを破っている。
岬は大会を通じて攻守に渡り大活躍を見せ、「当時の南葛SCにおいては、彼こそがキーポイントプレイヤーだった」と、準決勝で対戦した三杉淳は後に語っている。
当時の翼はCFであり、実質的にゲームを作っていたのはMFの岬であった。
三杉の指摘は決して後の関係によるひいきではないだろう。
大会後、父の仕事の都合で、またもや岬は別の土地へ向かった。
同時期に若林源三もドイツへ渡っている。
「全日本でもコンビを組もう」と、別れの際に大空翼は岬へメッセージを送ったとされている。
転校先の西峰小サッカー部は弱小チームではあったが、岬はそんな中でも腐らずにサッカーを楽しんでいたようだ。
この時期、彼に大きな選択肢が訪れる。
父親がフランスへ絵画の勉強に行くことが決まり、そちらへついていくのか、それとも放浪生活を不憫に思い、息子をひきとりたいと願い出てきた母親の元へ向かうか、答えを迫られたのであった。
幼い頃に別れた母、由美子は別の男性と再婚し、娘をひとり生んでいた。
岬にとっては、父親違いの妹となる。
さまざまな葛藤があったようだが、結果として、岬は父親を選んだ。
プライベートなことでもあるので、ここでは詳しく触れない。
かといって母親や妹と仲違いしているわけではないことを、念のため補足しておく。

岬はフランスへと渡った。
サッカーの盛んな欧州にて、その才能はひときわ花開くかと思われた。
実際、フランスでも岬の卓越したテクニックは認められ、複数のクラブから誘いを受けた。
が、しかし、大空翼との約束を心にとどめていたのか、「いつでも日本代表として試合に出られるように」と、どのチームからの誘いを断っている(このときの岬の行動に対して、疑問を呈する者は多い。クラブといってもジュニアでの育成的な契約にすぎず、プロ契約のように束縛されるものではない。そもそも若林源三がハンブルクに所属しているように、クラブ入りすることが代表として出場することへの足枷となる可能性は低い。むしろ、日本にいない岬こそ、海外のチームで実績を上げてアピールする必要があったはずである。おそらく、岬親子が当時契約などに関して無知であったことからの勘違いだと思われるが、あまりに不合理な行動であるため、翼による陰謀説なども唱えられた。この点においては、当時、サッカー協会にいた私も反省しなければならない。岬太郎の行方はつかんではいたが、そこまでの提案ができていなかったのだ。後にすばらしい活躍を見せる選手だけに、成長期に一流のクラブチームで指導を受けていたら……と惜しまれてならない)。

翼と岬はジュニアユース大会において再会する。
「全日本でもコンビを組もう」という約束がひとまず果たされたのだ。
エッフェル塔の見守る中、ふたりは再会を喜び合ったというエピソードが伝わっている。
当時の日本サッカー協会における内情を暴露させてもらうと、若林源三については実力者である見上辰夫の推薦もあり、ドイツから召集することに反対の声はなかったが、実は岬太郎については異論の方が多かった。
フランスにおいてサッカー浪人生活を送っている岬には、実績がまるでなかったからである。
結局「せっかく地元フランスにいるのだから……」ということで落ち着くのだが、岬は小学校最後の試合でかなりのケガをしていることからも、実力を疑問視する説が根強かった。
岬自身も疑心暗鬼だったのか、自分の実力を試すためにフランスジュニアユースチームへ殴りこみをかけるという彼らしくない行動に出ている(時に闘志を燃やして大胆な行動をとることもあるようだが)。
が、周囲の不安をよそに、実力を疑問視する声は簡単に一掃された。
大空翼とのコンビプレイは少しも衰えていなかった。
衰えどころか新たな環境から刺激を受けて発展していたといってもよかった。
イタリア、アルゼンチン、フランス、そして西ドイツ(当時)と強豪国を破り、日本は優勝した。
岬が大活躍したのはいうまでもない。
特にアルゼンチン戦でのジャンピングボレーシュートと、西ドイツ戦での決勝ゴールへつながるライン際のドリブルとセンタリングは、岬太郎のベストプレイを語る際には必ず取り上げられている。
大空翼と岬太郎は小学生時代、わずか数ヶ月を共に過ごしたにすぎない。
それでいて、息の合ったプレイを見せる姿に味方もまた驚いたという。
しかし、別の見方をすれば、「ということは、誰とでもコンビが組めるということではないか、大空翼だから特別ということはない」と斜めから見た評価をするものもいる。
彼らは証拠として、後の三杉やオチャドとのプレイに順応したことを挙げるが、これこそ歴史にIFは禁物という好例であろう。

その2へと続く

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