二次創作・キャプテン翼黄金世代列伝「ガラスの貴公子三杉淳」その2

キャプテン翼小説

彼はスタミナの少なさをカバーするために、ジュニアユース大会で経験したDFに活路を見出した(この件に関しては「三杉本来のポジションには大空翼の存在があったためだ」と若干意地の悪い見方をする評論家も存在する)。
もっとも、天才肌の彼は、このポジションでも非凡な才能を見せた。
少なくとも、他の日本DF陣の誰よりも実力では優れていただろう。
特に相手のパスコースを読むことと、オフサイドトラップの指揮にかけては世界でも最高レベルといわれた。
「この頃の憧れはフランコ=バレージだった」と往年のイタリア代表名DFの名を挙げている。
ワールドユース大会においても彼は活躍を見せ、日本の優勝に貢献をしたが、天才三杉淳にしては華やかさに欠けていたかもしれない。
彼自身も満足はしていなかったという。

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アジアレベルの予選はともかくとして、本大会に入ってからは、これまで彼がほとんど体験したことがない――ボールを奪われることや、敵に簡単にかわされるといった――経験をすることになった。
マスターしたドライブシュートもなかなか決まることがなかった。
この年の大会は空前のハイレベルといわれ、後のサッカー界に大きな功績を残す選手たちばかりが出場していたが、「ここまで通用しないとは・・・・・・」と、三杉は世界の壁に呆然としたという。
特にフィールドを自由に駆け巡るブラジルの天才、ナトゥレーザやサンターナに対しては、ショックを受けると同時に、嫉妬を感じたと後に告白している。
対ブラジルの決勝戦で、司令塔の翼が徹底的に研究され、日本は窮地に陥った。
大会前に岬太郎が交通事故で大ケガを負ったために、日本は翼以外にゲームメイクを任せられる人材がいなかった。
「せめて岬がいれば・・・・・・」
そのような声が聞こえたとき、「自分の名が出されないことが悔しかった」と、三杉は後に述懐している。
しかも、結果的に岬がケガを押しながらも出場することでブラジルを破っただけに、悔しさはひとしおであった。
ただし、「この時点で自分がゲームメイクを任されていたとしても、ブラジルには勝てなかっただろう」とも、三杉は正直に述べている。
三杉びいきの評論家からは「三杉は守備の要であり、MFに上げるわけにはいかなかった。彼がいなければ、ブラジルの猛攻を2点で防ぐことは不可能であっただろう。だから、名前が挙がらなかったのは当然だ」と擁護する声もある。

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いずれにせよ、三杉にとって、高校、さらには続くJリーグベルマーレ平塚でのプレイは失ったブランクを埋める時期であり、後のキャリアへの下地を作る時期であった。
当時、三杉は医大生として学業とサッカーとの両立を要求されていた。
そのためか、ベルマーレでは十分な活躍の機会が与えられず、チームもJ2に陥落。
三杉はハイレベルな環境を求め、自宅とも近いFC東京への移籍を決断した。
FC東京では右サイドでのプレイを要求された。
天才である彼は、初めて経験するポジションにも当然のように順応し、特に正確で速いクロスは世界レベルといわれ、優れた容貌から、イングランド代表の名選手デビット=ベッカムになぞらえられて「和製ベッカム」との異名を取った。
本人も「当時はベッカムに憧れていた」と語っている。
FC東京在籍時、オリンピック代表に彼は選出されている。
スペインのマドリッドで開かれたこの大会で、大空翼率いる日本は金メダルを獲得する。
翼と岬の黄金コンビは健在で、イタリアで修行した日向小次郎も活躍、若林も神がかり的なセーブを見せた。
三杉もボランチにリベロに右サイドにと活躍を見せたが、どうにも便利屋という印象が拭えなかった。
フル出場をするものの、本大会では各国のトッププレイヤーの前に実力差を見せ付けられるシーンもしばしば見られた。
特に同時期、親善試合でナイジェリアのエース、オチャドにかわされたのはショックであったと後に三杉は述懐している。
「あのとき、オチャドはボクなど眼中にもなく、岬君をライバル視していた。それをわかっていたから、日本にはまだこんな奴もいるぞと一泡吹かせてやろうと思っていたんだ。ところが、あっさりとかわされたんだからね。悔しかったよ」
この大会はアジア予選でオーストラリア代表に敗れるなど、黄金世代が大苦戦した大会とも知られているが、三杉にとっても苦しい大会であったに違いない。
それでも時折、天才の片鱗を見せたものの、もはや、世界は彼よりも日向小次郎や岬太郎、そして未完の大器といわれた新田瞬らに注目を寄せていた。
(余談であるが、このオリンピックにおいて、三杉は「臨死体験を経験した」と医学会の講演などで冗談めかして話している。決勝トーナメント1回戦で、シュナイダー率いるドイツと対戦した際、彼はシュナイダーの強烈なボレーシュートを胸でブロックしに行ったが、それが心臓に直撃し、一時、心停止したというのである。この頃、三杉の心臓は投薬治療によって完治していたものの、激しいプレイを続ければ、再発する可能性はゼロではないと言われていた。そこにシュナイダーの世界トップレベルのシュートが直撃したのだから、心臓に強いショックが当たったのは間違いない。このとき、三杉は上空から自分の体をマッサージする翼を見たと語っている。そのとき、「自分はまだサッカーをしたい!」と心の底から叫んだら、誰かの声がして、再び心臓に鼓動が戻ったという。その声が誰であったか、今でもわからないという。弥生夫人はしばしば「私の声が届いたのよ」とこちらも冗談めかして話しているが、当時、倒れた三杉を見て、青葉弥生は気絶していたという証言もある。「あれは神の声だったのかな……でも、医者としてはそういう非科学的なことは言えませんよね」と、冗談で締めくくるのが講演でのお約束となっている。)

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オリンピック後、三杉は世界への憧れを隠せないでいた。
バルセロナでプレイする翼との力量・経験の差は明らかであり、少しでも差を埋めるには海外移籍しかないと考えるのは自然の流れであった。
また、彼自身、翼との差を「才能の差」と考えたくないという本音もあった。
思わぬところから、救いの手は差し伸べられた。
当時、ハンブルクからバイエルン=ミュンヘンへと移籍し、活躍していた若林源三が、当時バイエルンのエースであったカール=ハインツ=シュナイダーへと良質なパスを供給する選手を求めていたチーム事情を聞くに及んで、三杉淳を推薦したのである。
喉から手が出るほど欲しかったオファーに三杉は飛びついた。
所属チームも幸い理解を示し、完全移籍ではなかったものの、三杉はドイツへと旅立つことができたのである。
しかも、ありがたいことに、三杉は医学先進国であるドイツにて医大へ通うことも許されたのである。
三杉が張り切らないわけがなかった。
この頃、三杉は青葉弥生へプロポーズをしたと伝えられている。
「君も一緒にドイツへ来てくれないか」
弥生夫人は雑誌のインタビューでプロポーズの言葉を尋ねられた際にそう答えている。
しかしながら、弥生夫人はドイツへ行くことがなかった。
ふたりが破局したわけではない。
弥生夫人の胎内に新たな命が芽生えていたという事実があったからだ。
「あのときの主人の顔ったら・・・・・・まるで日向くんのシュートが顔に直撃したみたいに呆然としていたわ」
「事実」が伝えられた際の三杉の様子を弥生夫人は同じくインタビューで答えている。
引退後、タレント活動をしている石崎了は「医者のくせに自分の彼女が妊娠していることに気づかなかったヤブ医者」と、彼らしい辛辣かつ愛嬌のある表現で冷やかしている。
三杉はドイツへ旅立つ前に結婚式を挙げた。
黄金世代の面々が集う、盛大な結婚式であった。
大空翼のみスペインリーグが始まる前の大事な時期だからと出席を断ったため、後にさまざまな邪推がされたが、これは純粋に大空翼の性格によるものだろう。

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三杉の実力はドイツでも認められた。
バイエルンでのポジションは右のMFであった。
ただし、バイエルンは中央にMFを置かないシステムであったため、実質的には司令塔的な役割もこなした。
左のMFスウェーデン代表ステファン=レヴィンと共に中盤を支配し、エースストライカーのシュナイダーへと的確なパスを送った。
華麗なるテクニックはドイツ人をも魅了したという。
バイエルンは国内リーグで無敵の快進撃を続け、ついには岬とオチャドの率いるパリSGを破り、欧州チャンピオンズリーグ優勝も成し遂げた。
日本人としては大空翼に次ぐ快挙であった(ちなみに大空翼の所属するバルセロナは、準決勝でパリSGに敗れ、敗退している。このとき翼はケガで出場できなかった。翼と岬の対決が見られるチャンスであっただけに、相変わらず空気の読めない翼にサッカーファンは嘆いた)。
この時点で三杉淳は復活したと解釈する評論家もいるが、三杉自身は満足していなかった。
バイエルンではシュナイダーや若林が第一のスター選手であり、三杉はその次にいる選手にすぎなかった。
反対にいえば、シュナイダーや若林で勝っているチームと見られていたのだ。
実際のところ、試合途中で交代させられるケースも多かった。
事実、欧州で高い評価を受けた三杉であっても、続いて行われたワールドカップでは、またも翼の引き立て役にすぎず、日本DF陣の層が薄いことから、リベロでのプレイを余儀なくされた。
もちろん、リベロも重要なポジションであることに間違いはなかったが、翼のワンマンチームと化している日本では、その他大勢という扱いにされてしまいがちであった。

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それでも日本が優勝するのだから、あながち戦術として間違いではないのかもしれないが、翼以外の選手から不満の声が聞こえ始めたのも事実であった。
大空翼の自己中心的な、ある意味天才的な性格、また独創的すぎるプレイに他の選手たちがついていけなくなったのである。
天才と称された三杉も例外ではなかった。
黄金コンビと言われた岬太郎でさえついていけなくなったと証言しているのだから当然だろう。
翼に増長や驕慢といった雰囲気も見て取られたことから、当時の日本代表監督見上辰夫は、欧州にいるという名目で大空翼を代表に召集しなくなった。
イタリアにいた日向小次郎やドイツにいた三杉淳を召集しているにも関わらず……だ。
当然、翼の代わりにゲームを組み立てる選手が必要となった。
順当であれば、岬太郎が第一の候補であったが、彼自身が後に証言しているように、彼は恒星であるより惑星でありたいタイプであったのである(衛星と言わなかったのは、彼のプライドか)。
また、翼にボールを集める戦術を長年起用してきた黄金世代は、トップ下の選手にボールを集める癖が出来ており、岬にマークを集中させればボールをカットできると読んだ他国DF陣の前に苦戦することが多くなってきた。
これはマドリッドオリンピックの頃から言われてきた黄金世代の弱点であった。

その3へ続く

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