マドリッドオリンピック代表にも井沢は選ばれた。
ポジションはMFではなくDFであった。
アジア予選から本大会まで、何度か井沢はCBを務めた。
長身と持ち前のジャンプ力で井沢はよく日本の制空権を守った。
「考えてみたら、名前が守なんだから、守備の方が向いていたのかもね」と井沢は当時を思い出しておどけている。
守りだけではなく、コーナーキックを得た際には果敢に前線へと飛び出し、何度か劇的なヘディングシュートも決めている。
「黄金世代の中でも、高さで井沢と勝負できるのは日向と翼ぐらいだった」と、後に吉良耕三は語っている。
ただし、そのあとで「単独でなければ立花兄弟が一番高かったがな……」と付け加えている(吉良耕三の指揮下で立花兄弟がサッカー生命を奪われたのは有名な話である。含みのある発言ではあるが、本稿の趣旨とは外れるのでここでは触れない)。
「一人一芸」というスローガンを掲げ、個々のレベルアップを求めた当時のU-23日本代表監督である吉良耕三には、DFとMFをこなす井沢の存在は良きモデルであったはずだ。
マドリッドオリンピックにて日本代表は、再三ケガ人を出し、苦戦はしたものの優勝を果たした。
ときにはミスもあったが、DFとして世界のトップレベルと対決し勝ち抜いたことは、井沢の自信につながった。
元々、司令塔をこなし戦術眼に優れた選手である。
それはポジションがかわっても無駄になるものではなかった。
的確な飛び出し、球際での勝負強さ、そして何よりも高さが日本チームに欠かせない存在となっていた。
戦術により、その座は三杉や松山、井川らに譲られることはあったものの、黄金世代でもっともCBとしてプレイした時間が長かったのは井沢である。
続くワールドカップの優勝にも井沢は日本代表DFとして貢献した。
このときの井沢はDFの中心選手といっても過言ではなかった。
「東洋の壁」と異名を取った次藤洋との組み合わせは、世界中のストライカーからの攻撃を防いだ。
思えば、MF時代は第二、第三の男であった井沢であるが、このときは随一の存在となっていたのであった。
「安心して見ていられた。常にいいポジションを取っていてくれたよ。俺のSGGK伝説もあいつの存在があってのことだ。それにしても、あの井沢がDFとして活躍するなんてな」
もっとも古くから井沢を知る若林源三は、DFとしての井沢のプレイについて評価を求められたとき、若干リップサービスもあっただろうが、うれしそうにそう答えている。
二度目のワールドカップにおいても、井沢の活躍は変わらなかった。
日本は皮肉にも帰化した大空翼率いるブラジルに敗れ、準優勝であったものの、日本代表のプレイには高い評価が与えられている。
井沢に関しても同様であった。
黄金世代の面々は大半がこのときのワールドカップ後に現役引退、または代表の引退を果たしているが、井沢を初めとして、来生、滝、高杉の修哲メンバーはその後も現役にこだわりを見せた。
特に井沢に至っては40になるまで現役を続けた。
怪我や衰えにより、運動量は落ちたものの、経験に裏打ちされた技術と判断は衰えを知らなかった。
マリノスからいくつかのクラブを経由し、最後はボロボロになりながらもJFLや中国、アメリカでもプレイした彼の姿に多くの若者は感じ入るところがあったという。
引退後は来生、滝、高杉らと全国を回り、少年たちを相手にサッカー教室を開いている。
彼らには複数のJリーグクラブからコーチとしての要請が来ているというが、皆がしばらくは最前線を離れたいという意向のようだ。
また、共同でクラブチームを結成することで後進への指導に当たっている。
チームは「修哲クラブ」と名づけられた。
彼らにとって一番すばらしかった時間は、南葛時代よりも修哲時代であったのかもしれない。
彼らが一番輝いた時間であったのだろう。
文責:片桐宗政(元Jリーグチェアマン)
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